『Fishing Diary #3』

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 風がまだ冷たい。
 春の気配は少しずつ近づいてきているはずなのに、海辺を走ると、冬の名残が肌を刺すように吹きつけてくる。

 それでも朝の海には、いつものようにポツポツと釣り人の姿があった。
 防寒着を着込んで、じっと波を見つめながら竿を握っている。誰も声を出さず、ただそれぞれの釣りと向き合っているようだった。

 車の窓を少し開けると、潮の匂いがふわりと入り込んだ。

 「そろそろ、水温も少しは上がってきたかな」

 とはいえ、まだ浅場に魚が入ってくるには早い気がする。今日のような日は、やはり深めのポイントを探るのが良さそうだ。

 そう思いながら、海岸線をゆっくり走る。
 風裏になる地形を探しながら、テトラが積まれた場所を見つけると、車を止めた。

 潮はそれほど強くない。波も穏やかで、立ち込む必要もなさそうだ。何より、ここなら深さもあって、根魚が潜んでいる可能性が高い。

 ゆっくりと支度を整える。
 今日はシンプルに、ブラクリ仕掛けにオキアミをつけての釣り。狙うのは、テトラの隙間に潜む根魚たち。

 仕掛けを静かに落とす。
 スルスルと沈んでいき、オキアミが暗い海中に溶けていくのを感じる。

 ……反応はない。

 潮が動いていないせいか、エサ取りも来ない。
 テトラの隙間を変え、落とす場所を少しずつずらしながら、丁寧に探っていく。

 数分が経過した頃。

 コツ……。

 わずかに、竿先がピクリと動いた。
 神経を研ぎ澄ませ、しばらく待つ。すると、次の瞬間──

 ググッ!

 竿先がぐっと下に引き込まれる。反射的にアワセを入れると、ずしりとした重みが伝わってきた。

 「……きた」

 根に潜られないよう、強めに巻き上げる。
 それほど暴れないが、しっかりとした抵抗感。この鈍い引きは、たぶん──

 海面に浮かび上がったのは、黒っぽい魚体。
 目が大きく、どこか鋭い雰囲気を漂わせたその姿。

 「ムラソイだ」

 なかなかのサイズ。20cmは超えている。
 厚みのある体に、がっしりとしたヒレ。テトラの中でじっと息を潜めていた獣が、ついに飛び出してきた。

 「いいね。これは嬉しい一匹」

 針を丁寧に外し、バケツの中にそっと入れる。
 茶色がかった魚体が、日の光を受けてきらりと光った。

 仕掛けを打ち直す。
 潮の動きに合わせて落とし方を微調整しながら、再びテトラの影を狙う。

 すると、またすぐにアタリがきた。

 今度はもう少し軽めの引き。だが、しっかりとしたトルクを感じる。
 上がってきたのは──

 「カサゴ、やっぱりいたか」

 ムラソイほどのサイズではないが、ぷっくりとした体形で美味しそうな個体。
 このあともう一匹、同じくらいのカサゴが続けて釣れた。

 バケツの中で、ムラソイとカサゴが静かに泳いでいる。
 海の色をそのまま映したような魚たち。ゆっくりと呼吸をするその姿を見て、ふと気が緩む。

 「これだけ釣れれば、もう充分だな」

 冷たい風の中、じんわりと手が温まっていくような気がした。
 さて、次はこの魚たちを、どうやって一番美味しく食べようか。

 家に戻り、キッチンに魚を並べる。
 ムラソイ一匹、カサゴが二匹。どれも身がしっかりしていて、見るからにうまそうだ。

 「今日は……全部、あれでいこう」

 迷いはなかった。
 この魚たちは、あの調理法がいちばん似合う。アルミホイルに包んで、塩とバターでじっくり焼き上げる──それだけで、素材の味が最大限に引き出される。

 まずは下処理から。
 まな板にムラソイを置き、包丁の背でザッザッと鱗を落としていく。思ったよりも硬く、骨ばった手応え。鱗が弾け、キッチンに軽く散る。

 エラと内臓を取り除くと、ぷりっとした白身が現れる。
 腹の中には、うっすらと脂ののった身がたっぷり詰まっていた。

 同じくカサゴも捌いていく。こちらは少し柔らかく、手慣れた動きで処理が進む。

 下処理を終えた魚たちをキッチンペーパーで丁寧に拭き取り、塩をまぶす。
 全体にまんべんなく、そしてお腹の中にもしっかりと。バターの香りと塩気が馴染むように、数分だけ置いてなじませる。

 「よし、包もうか」

 アルミホイルを広げ、その中心に魚を一尾ずつ乗せる。
 その上から、厚めに切ったバターを乗せ、香り付けに薄くスライスしたにんにくを一枚。少しだけ白ワインを垂らし、そっとホイルを閉じる。

 包みを三つ、グリルに並べると、静かな音が立ち始めた。

 ジュウ……

 バターが溶け出し、魚の身から染み出した脂と合わさって、ホイルの中でぐつぐつと踊る。
 鼻をくすぐるのは、焦げかけたバターの香ばしさ。そしてほんのりと漂う磯の香り。

 「うわ、もう絶対うまいやつ」

 グリルの扉越しに立ち上る湯気を眺めながら、思わずにやけてしまう。
 数分後、火を止めてホイルを開くと、湯気と一緒に芳醇な香りがふわりと立ちのぼった。

 皮がわずかに焦げ目を帯び、バターが金色に泡立っている。
 箸を入れると、ほろっと身が崩れ、湯気が一瞬にして広がった。

 「いただきます」

 まずはムラソイから。
 淡白な中にも深みのある身が、バターと塩の風味でさらに引き立っている。しっとりとした食感に、にんにくの香りが後から追いかけてくる。

 カサゴは、さらに繊細だ。
 やわらかくてふっくら、舌の上でほどけるように溶ける。脂がホイルの中で回っていたせいか、どこを食べてもじんわりと旨味が広がる。

 口に入れるたび、思わず目を閉じたくなるような幸福感。

 「……これは正解すぎたな」

 冷たい風の中で釣った魚が、こんなにも温かい一皿に変わる。
 あの瞬間、竿先がググッとしなったときの感触が、じわりと蘇る。

 風はまだ冷たい。
 けれど、今は部屋の中にいて、目の前には熱々の塩バター焼き。

 釣れた魚を食べることが目的じゃない。
 海と向き合い、魚と出会い、その命をいただき、自分の手で一皿に仕上げる──それが、僕にとっての釣りだ。

 最後のひと口を口に運ぶ。
 塩とバターの余韻を舌に残しながら、そっと息を吐いた。

 「さあ、次はどんな魚に出会えるかな」


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