『Memories Left bihind』

この記事は約8分で読めます。
この記事にはプロモーションが含まれています

 夜の車窓に、景色が流れていく。

 まるで、自分の記憶だけを運んでいくみたいだった。

 川沿いを滑る光の帯。水面に映る街灯の明かりは途切れ途切れで、少し夢のなかみたいに現実感が薄れていく。

 静かだった。車内には数人しか乗っていない。私は座席の隅に身を預けて、窓の外に視線を預ける。

 どこかへ行きたかったわけじゃない。
 でも、どこかへ向かわずにはいられなかった。

 誰かの声に呼ばれた気がして、この時間の電車に乗っていた。

 
 思い出すのは、やっぱり、あの日のことだった。

 *

 冬の入り口の夕方。駅の改札の前で、彼と立ち尽くしていた。

 「……なんで、急に?」

 どちらが言ったのかも、もう定かじゃない。最後のやりとりは、思っていたより曖昧だった。

 彼の手はポケットに沈んでいて、目は私の奥を見ていた。

 「ごめん」

 それだけを残して、彼は電車に乗った。
 私は残った。

 別れよう、なんて言葉はなかったのに、すべてが別れのかたちをしていた。

 扉が閉まり、電車が動き出す。
 私たちは、それきりだった。

 
 *

 季節がいくつか過ぎて、ある日ふと思い出した。
 あの駅、あの時間、あの場所。

 いてもたってもいられなくなって、私は電車に乗っていた。

 意味があるのかはわからない。でも、確かめたかった。
 言えなかった言葉も、飲み込んだ感情も、まだどこかに残っている気がしていたから。

 電車の揺れが、記憶を揺らす。
 静かに、胸の奥に波紋が広がっていく。

 ねえ、今どこにいるの?
 なにしてるの?

 もちろん返事なんてないけれど、それでも構わなかった。
 思い出せるってことだけで、どこかでまだ繋がっている気がしていた。

 あの頃、ふたりで乗った電車。
 手をつながなくても、近くに感じられた距離。

 いま、私はその場所へ向かっている。

 
 ホームに降りた瞬間、胸の奥が少しだけ震えた。

 懐かしい風景は、変わったようで、なにも変わっていなかった。

 ベンチに腰を下ろして、スマホの画面を開く。
 通知はひとつも来ていない。

 私は電源を落とした。

 今日は誰ともつながらなくていい。
 ただ、電車と記憶と、自分だけでいい気がした。

 ここに来たところで、彼に会えるわけじゃない。
 わかってる。なのに、足は勝手にここまで来てしまった。
 
 ──「一緒に帰ろっか」

 ふいに、耳の奥にあの声がよみがえる。
 少し笑って、どこか照れくさそうで、それでもまっすぐだった。

 記憶って不思議だ。
 最後にどんな言葉を交わしたのかは思い出せないのに、どうでもいい一瞬の仕草や声だけが鮮明に残っている。

 私は、彼に最後になにを言ったんだっけ。
 言えなかっただけかもしれない。
 黙ったまま、なにも返せなかったのかもしれない。

 
 電車がホームに滑り込んできた。

 わかってる。来るはずなんてない。
 なのに私は、目で探してしまう。

 似た背中を見つけるたびに、一瞬だけ期待してしまう。

 でも違った。やっぱり、違った。

 電車は扉を閉じて、ゆっくりと走り去っていく。

 取り残されたホームに、ひとり。
 私は、もう一度深く息を吐いた。
 
 私が彼を思い出すように、彼もふと、私を思い出す瞬間があるんだろうか。

 消せずにいるトーク履歴。
 最後に送った「元気でね」という一文。
 既読がついたまま、返事はなかった。

 あのとき、それで全部が終わった気がした。

 
 でも、もしも。
 もしも、彼がまだあの言葉を覚えていてくれるなら。

 それだけで、少しだけ前を向ける気がする。

 ホームの風が少し冷たくなってきた。
 もう少しだけ、この場所にいたいと思った。

 彼を待っているんじゃない。
 ちゃんと、自分と向き合うために。

 そして私は、次の電車に乗ろうと思った。

 終点まで、記憶を乗せて。
 彼と降りたことのない駅まで、心を運んでみたかった。

 窓の外は、相変わらず灰色の空。

 でも、不思議と景色が違って見えた。
 何度も通ったはずの道なのに、今日はどこか輪郭がにじんでいる。

 車内の揺れに身を預けながら、私は膝の上で手を組んで、ぼんやりと外を眺めていた。

 
 ――あの日も、たしか、雨だった。

 
 最後に彼を見た日。
 私の前で立ち尽くしていた彼の姿だけが、時間に滲まず残っている。

「またな」

 彼はそう言って、電車に乗った。
 扉が閉まる直前まで、私を見ていた。

 でも、私はなにも言えなかった。
 手を振ることも、笑うこともできなかった。

 見送ることしかできなかった自分を、いまでも時々、悔しく思う。

 
 車内には、静かな空気だけが流れている。

 イヤホンはしていないのに、頭の中にはあの頃の音楽が流れていた。

 
 あの人の言葉、どれだけちゃんと受け取れていたんだろう。

 そばにいれば、それでいいと思っていた。
 言葉にしなくても、通じるものがあると信じてた。

 だけど、そんなのはただの幻想だったのかもしれない。

 
 名前を知らない駅が、いくつも通り過ぎていく。

 降りたことのない場所でも、彼と話したことを思い出してしまう。

「このへんに、うまいラーメン屋があるらしいよ」

 そんな話を、車内でしていた。

 行くことはなかったのに、なんだかずっと覚えている。

 
 私の記憶は、彼の言葉でできているのかもしれない。

 特別じゃなくていい。
 でも、忘れられない。

 そんな時間ばかりが、今も胸の中に残っている。

 
 過去に縋っているわけじゃない。
 だけど、過去を手放す準備も、まだできていなかった。

 彼がいなくなった日から、私の中に彼が根を張ってしまったから。

 
 窓に映る自分の姿は、少しだけ大人びて見えた。

 こうして静かに彼を思い出せるようになるなんて、あの頃の私は想像もしなかった。

 
 あのときは、すべてが終わってしまったような気がしてた。

 でも、時間は思っていたよりもやさしくて、
 痛みを、すこしずつ滲ませていってくれる。

 
 もしまた会えたら、私はなにを言うだろう。

「ひさしぶり」って、言えるかな。

 それともまた、言葉が詰まって、目をそらしてしまうんだろうか。

 
 きっと、もう会うことはない。

 だからこそ、彼の姿はずっとあのときのまま、記憶の中に立ち止まっている。

 
 電車は進んでいく。

 もう戻れないことも、わかってる。

 でも、記憶の中だけでも、彼と同じ景色を見ていたくて、
 私はまだ、この列車の中にいた。

 次の駅で降りるつもりだったのに、私はまだ座席にいた。

 扉が開いても、体は動かなかった。

 静かな車内。
 どこか取り残されたような気がしたのに、不思議とその感じが心地よかった。

 
 誰にも見つからない時間と場所。
 その中にいることで、ようやく自分の輪郭がはっきりしていく。

 
 あの人を思い出すとき、いつも風景の中に姿がある。
 駅のホーム、電車の窓、雨の中の傘。

 どこにもいないのに、確かにそこにいるような気がしてしまう。

 
 いま彼がどこで、誰と、なにをしてるのかは知らない。

 でも私は、彼との時間の中でしか、彼を探せない。

 それでいい。
 そう思えるようになってきた気がする。
 
 かつて交わした言葉のほとんどは、もう思い出せない。

 でも、声のトーンや、沈黙の間。
 ふとした笑い方だけは、ずっと残ってる。
 
 記憶って、不思議な場所を覚えてくれる。

 形あるものじゃなくて、空気みたいなものだけを、ちゃんと拾ってくれる。
 
 名前も、写真も、メッセージもいらない。

 残しておきたいのは、
 ただ、彼と一緒にいたときに流れていた時間だった。
 
 缶コーヒーのぬるさとか、
 改札の音とか、意味のない会話の続きとか。

 そういう何でもないものが、今もちゃんと残っている。
 
 窓の外。
 知らない駅のホームで、誰かが誰かを迎えていた。

 その光景が、少しだけまぶしく見えた。

 
 私は誰にも会いにいくわけじゃない。
 会える相手も、もういない。

 ただ、記憶の続きを確かめたくて、こうして列車に乗っているだけ。
 
 きっと、いつかはこの気持ちも過去になる。

 だけど、今はまだここに置いておきたい。

「……またな」

 最後に聞いた言葉が、ふいに頭の中で揺れる。

 私も、返せなかった。
 なにも言えず、ただ立ち尽くしていた。

 
 あのときの自分に、声をかけたい。

 でも、もうどうにもならない。
 
 せめて、いまこうして思い出せていることが、
 私なりの返事になればいい。

 終点が近づいてきた。
 車内アナウンスが、現実に戻るように響く。
 
 降りなきゃ。
 でも、降りたくなかった。

 そんな気持ちを胸の奥で噛みしめながら、私はゆっくり立ち上がる。
 
 扉が開いて、冷たい風が吹き込む。
 外の世界に触れた瞬間、さっきまでそばにあった記憶が、少しだけ遠のいた。
 
 でも大丈夫。
 私の中に、ちゃんと残っている。

 彼の言葉も、笑い顔も、何も言わなかった沈黙までも。

 この列車の窓の向こうに、すべてを置いてきたようで、ほんとはずっと、自分の中にあった。
 
 改札を抜けて、空を見上げる。

 雨は止んでいた。

 
 いま、私はようやく歩き出せた気がする。
 何かが終わったんじゃなくて、何かを持ったまま、前に進めそうな気がした。
 
 彼のことは、もう過去なのかもしれない。

 だけど、完全に終わりにしたくないって思った。
 
 たとえ誰にも語られることがなくても、誰とも共有できなくても。

 それでも、私の中ではちゃんと、あの時間が生きている。
 
 駅前のベンチに腰かけて、スマホを取り出す。
 画面には、何も通知はなかった。

 でも、不思議とそれでよかった。

 
 思い出は、返事をくれない。
 でも、いつもそばにある。

 
 私はその日、ゆっくりと深呼吸して、帰りの電車に乗った。

 もう、彼のいない風景にも慣れてきたけど、
 それでも、どこかで今も彼を探してしまう自分がいる。
 
 その気持ちは、もう否定しない。

 記憶に残る彼の姿を、これからも私はきっと、忘れないでいる。
 
 たとえ触れられなくても、もう会えなくても――

 
 この胸に、静かに息づいているあの人との物語。

 それだけはずっと、ここに置いておこうと思った。


送信中です

×

※コメントは最大500文字、10回まで送信できます

送信中です送信しました!
error: Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました