
最後に並んで歩いたのは、卒業式の日だった。
ふたりきりで歩いた帰り道。手はつながなかったけど、近かった。
付き合ってたわけじゃない。
でも、まわりからはそう見られていたし、私たちもどこかで、そうなりかけていたのかもしれない。
あと一歩ずつ踏み出していたら、“そういう関係”になっていたのかも。
一度だけ、彼がぽつりとつぶやいた。
「俺たちって、なんなんだろうな」
私は、何も答えられなかった。
そのことがずっと、心のどこかに引っかかっていた。
あのとき、なにか言えていたら。
ちゃんと、形にできていたら。
今ごろは、違う場所に立っていたのかな。
そんなことを、いまだに考えてしまう自分がいた。
新学期が始まって、彼とは違うクラスに。
廊下で会えば、軽く手を振るくらいの関係。
会話なんて、もう何日してないか覚えていない。
今さら話しかけるのも、なんか変な感じで。
目が合いそうになったら、ついそらしてしまう。
たぶん、向こうも同じこと思ってるんだろうな。
スマホの通知が鳴らない日が、続いている。
トーク履歴の一番上に、彼の名前だけが残ったまま。
最後に「おつかれ」って送ったのは、一週間前。
既読はついた。でも、それきり。
“なんで返信くれないの?”なんて、言いたいわけじゃない。
でも、“待ってるって気づいて”とも、やっぱり言えなかった。
何かを送っても、もう届かないような気がして。
それでも何かを送りたくて。
画面を開いては閉じる、それだけの毎日が続いていた。
昼休み、友達と話していても、ふと彼の声を探してしまう。
遠くで誰かが笑っているだけで、「あ」って振り向きたくなる。
でもそんなときに限って、そこに彼はいない。
「ねえ、またボーッとしてたでしょ?」
からかうように笑う友達に、私は曖昧に笑って返す。
「んー、なんでもないよ」
そのセリフを繰り返すようになったのは、いつからだったんだろう。
放課後、校門の近くで、彼とすれ違った。
スマホを見ながら歩いてくる彼に、思わず声をかけようとしたけど、足が止まる。
すれ違いざま、一瞬だけ目が合った。
でも彼は、なにも言わずに通り過ぎていった。
「元気?」それすら、言えなかった。
喉の奥に引っかかった言葉は、声になる前に消えてしまった。
小さくため息をついて、イヤホンを取り出す。
音楽に耳をふさがれるのを待つみたいに、指がプレイリストを選んだ。
流れてきたのは、彼と一緒に聴いていた曲だった。
夏の終わり。ふたりで電車に揺られながら聴いた、あの曲。
彼は笑ってこう言ってた。
「この曲、歌詞ダサいけど、なんか好き」
なんでもない思い出。
でも今は、その記憶が胸に痛い。
帰宅して、部屋の電気もつけずにベッドに沈む。
スマホの画面をぼんやりと見つめている。
通知は、まだ来ていない。
彼の名前をタップして、トーク画面を開く。
最後の「おつかれ」の吹き出しの下に、既読のチェックマークがひとつだけ、静かに居座っていた。
もう、なにを送ればいいかわからない。
でも、なにも送らないままでいるのも、苦しかった。
……なにやってんだろ。
また同じ言葉が、頭の中をぐるぐるしてる。
そのときだった。
画面がふっと光った。
1件の新着メッセージ。
手が止まる。呼吸が止まる。
そこに表示されたのは――彼の名前だった。
“元気にしてる?”
たった一行だった。
シンプルで、軽いようにも見えた。
でも、胸の奥にじんと響いて、しばらく動けなかった。
既読がついたとき、彼はどんな顔をしていたんだろう。
通知を見た瞬間、ちょっとは迷ったりしてたのかな。
スマホの画面を閉じても、頭の中にはその言葉が浮かび続ける。
“元気にしてる?”
何度も見たはずなのに、目を離せなかった。
なんて、ずるい言葉なんだろう。
この一週間、ずっと考えていた。
何度も言葉を打ちかけては消して、何も返ってこないままの画面を見つめ続けてきた。
その間、彼からは一言もなかったのに。
今さら、こんなふうに一行だけで現れるなんて。
軽そうに見えるその文字が、どうしようもなく重たく感じた。
……どういう気持ちで送ったんだろう。
懐かしさ? 優しさ? それとも、ただの気まぐれ?
考えてもわからないくせに、頭の中では答えを探してしまう。
でも、無視はできなかった。
ベッドの上でスマホを両手で持ち直す。
返信画面を開いたまま、時間だけが過ぎていく。
“うん、元気だよ”
それだけでもいいはずなのに、指が止まる。
本当は元気なんかじゃなかった。
彼の既読がついたあの日から、ずっと。
言えなかったことも、聞けなかったことも、たくさんある。
でも、それ以上に――たった一言じゃ伝えきれない気持ちのほうが多すぎた。
イヤホンをつけて、またあの曲を流す。
彼が「ダサいけど好き」って言ってた、あの歌。
昔は何も思わなかった歌詞が、今は妙に刺さる。
あのとき、ちゃんと聴いておけばよかった。
あの人を、もう少しちゃんと見ていればよかった。
スマホに視線を戻すと、画面にはまだ、彼からのメッセージが残っていた。
“元気にしてる?”
何度読んでも、胸がざわつく。
あたたかいようで、さみしいようで、泣きたくなるような。
どうしようもなく迷った末に、打ち込んだ。
「なんで今なの?」
送信ボタンを押す指が、少しだけ震えた。
でも、その揺れごと、全部送りたかった。
既読がついたのは、ほんの数秒後だった。
画面を伏せて、目を閉じる。
今日は、それだけでよかった。
* * *
その夜、スマホの光で目を覚ました。
画面には、新しい通知。
彼からだった。
「ごめん。
タイミングとか考えてなかった。
でも最近、昔のことばっか思い出してた」
文章は短かったけど、彼なりに考えた末の言葉なんだろうって思った。
“昔のことばっか思い出してた”
たったそれだけなのに、胸の中で何かがふっとほどける。
今さらって思ってたはずなのに。
こんなにも簡単に気持ちが揺れるなんて。
ほんと、ずるい。
でも、うれしかった。
それはもう、認めるしかなかった。
朝、目が覚めてすぐにスマホを手に取った。
メッセージの続きを考えている自分に、少しだけ笑う。
昨日まで、名前を見るだけで苦しくなっていたのに。
今日は、通知が来るのを待っている。
打ち込んだ言葉は、本当に何気ないものだった。
「そっか。思い出されてたのか、私」
照れ隠しのつもりで少しだけ冗談っぽくしてみた。
たぶんバレるんだろうけど、それでもいいと思えた。
昼過ぎ、授業中。
教科書をめくるふりをしながら、スマホがわずかに震えたのがわかった。
“思い出させるようなことばっか、今も残ってるからさ”
画面に浮かんだその一文に、心が静かにあたたかくなる。
なんでもない会話のやりとり。
でも、少しずつふたりの距離が戻っていくような気がした。
その日から、彼とのやりとりはぽつぽつと続いた。
毎日じゃないし、返事がすぐ来るわけでもない。
それでも、通知に彼の名前が浮かぶたびに、
息を吸い直すような気持ちになる。
こうして何気ないやりとりを重ねていく中で、
少しずつ、言葉にしなくても伝わるものがあるような気がしていた。
夜、ベッドに寝転びながらスマホを眺める。
彼とのトーク画面は、少しずつ会話の履歴で埋まっていく。
ゆっくりだけど、たしかに前に進んでいる気がした。
既読がすぐにつかなくてもいい。
返事が少し遅くてもいい。
ただ、また繋がっていることが、今はなによりうれしかった。
そんなときだった。
彼から届いたメッセージの通知が、ふいに胸をざわつかせた。
“ねえ、今度さ”
それだけ。
続きの言葉はまだなかった。
その一行に、思わずスマホを持つ手が止まる。
すぐに返信は来ない。
でも、その「……」の向こうにある気持ちを、
勝手に想像してしまう自分がいた。
しばらくして、画面が再び光った。
“やっぱ、今度会わない?”
言葉を見た瞬間、胸の中がじんわりあたたかくなる。
“やっぱ”ってつけるところが、彼らしくて、なんか笑ってしまった。
だけど、返事はすぐには打てなかった。
うれしいはずなのに、どこかで少しだけ、こわいと思ってる自分がいた。
また前みたいにすれ違ってしまったらどうしよう。
ちゃんと話せなかったら、また離れてしまうんじゃないか。
そんな予感が、少しだけ背中を引っぱった。
でも、それでも。
会いたい気持ちは、ちゃんとそこにあった。
「うん。いいよ」
結局、返した言葉はとてもシンプルだった。
でも、それ以上はいらない気がした。
その夜、スマホを伏せて目を閉じた。
眠れそうになかったけど、
それでも、不思議と、心は静かだった。
日曜の午後、駅前のカフェ。
ここは、ふたりで何度か来た場所だった。
窓際の席に座って、店員さんに「付き合ってるんですか?」って聞かれて、照れたことがある。
そんなことを思い出してしまって、ちょっと足が重くなったけど、
ガラス越しに彼の姿が見えた瞬間、胸の奥がすっと軽くなった。
いつもと同じ。
でも、どこか少しだけ大人びて見えた。
扉を開けると、彼がすぐに気づいて、軽く手をあげた。
懐かしい仕草に、胸がきゅっとなる。
「……ひさしぶり」
「うん。……ひさしぶり」
たったそれだけなのに、ふたりとも少し笑ってしまった。
学校では顔を合わせているのに、こうしてちゃんと向かい合うのは、本当に久しぶりだった。
メニューを開いているふりをしながら、心臓の音をごまかす。
変な沈黙が流れないように、自然と口を開いた。
「ここ、変わってないね」
「うん。BGMまで、なんか前と同じだし」
ふたりで笑って、なんとなく肩の力が抜けた。
「緊張してた?」
「ちょっとだけ」
「私も」
コーヒーが運ばれてきて、湯気がゆらゆらと揺れる。
その向こうにある彼の横顔を、目が勝手に追いかける。
「ちゃんと話すこと決めてきたわけじゃないんだけどさ」
彼がカップを置いて、少しうつむきながら言う。
「……一回、ちゃんと会って話したかった」
「うん」
「返事しなかったこと、ずっと気になってて。
既読つけたまま放置してたの、自分でもひどいと思ってた」
「……私も。
なに送っても届かない気がして、結局なにも言えなかった」
お互い、ちょっとだけ照れて笑った。
でも、その笑いには、たしかにほぐれていく空気があった。
ふと彼がポケットからイヤホンを取り出して、スマホを差し出してくる。
「これ、あのとき聴いてたやつ。まだ入ってた」
片耳ずつ、イヤホンを分け合う。
流れてきたのは、あの夏の終わりに、電車の中で一緒に聴いていた曲だった。
彼が「ダサいけど、なんか好きなんだよな」って笑ってたやつ。
あの頃は、ただのBGMだった。
でも今は、メロディが胸の奥を撫でるように響いてくる。
耳からではなく、心で聴いているような感覚だった。
曲が終わる頃、彼が小さな声で言った。
「……これ聴くと、思い出すんだよね。いろいろ」
「うん、わかる」
それ以上、言葉はなかった。
でも、その“わかる”の中に、いろんな気持ちが詰まっていた。
カフェを出ると、外の空気は少し冷たくなっていた。
夕暮れの色がビルの隙間に滲んで、駅までの道が静かに染まっていく。
彼は何も言わずに歩き出した。
私はそのすぐ隣に並ぶ。
特別なことはなにもない。
でも、久しぶりに並んで歩くこの距離が、やけに心地よかった。
「……あの曲、まだ聴いてたんだね」
ふと口にすると、彼はちょっと照れくさそうに笑った。
「うん。懐かしいやつばっか、残ってる」
「そういうとこ、変わってないね」
「たぶん一生このままだと思う」
笑い合ったあと、ふたりの間にまた沈黙が流れた。
でも、それは重くもなく、むしろ優しい静けさだった。
信号待ちのタイミングで、彼がスマホを取り出す。
ちらっと見えた画面には、グループLINEの通知が溜まっていた。
でも彼は、それをすぐに閉じて、またポケットにしまった。
「あのさ、」
「ん?」
「もし……あのとき、“好き”って言ってたら、どうなってたかな」
唐突すぎて、でも不思議と驚きはなかった。
むしろ、“今なら答えてもいい”って思った。
「たぶん……うまくはいかなかったかも」
そう言って、少し笑って続けた。
「でも、言われてたら。
私は、たぶん、すごくうれしかったと思う」
彼が視線をそらす。
その横顔は、ほんの少しだけ、くやしそうに見えた。
「……なんか、悔しいな、それ」
照れたような笑い。
でも、その言葉には、ちゃんと気持ちが滲んでいた。
「今なら……言ってもいいの?」
「……どうしてほしい?」
返した声は、思ったよりも冷静だった。
でも、心臓の音だけは、ちゃんと高鳴っていた。
彼は少しだけ黙って、空を見上げるようにして、静かに笑った。
「……わかんないけどさ。
こうやって、また一緒に歩いてるの、悪くないなって思ってる」
付き合ってるわけじゃない。
昔の恋人でもない。
でも、今この瞬間のふたりには、名前がなくてもちゃんと意味がある気がした。
それでいいって思えた自分に、少しだけ驚いていた。
駅のホームに着いたとき、ちょうど電車が滑り込んできた。
「じゃあ、また連絡する」
「うん。……待ってるから」
そう言うと、彼が照れたように笑ってくれた。
その笑顔を見て、なんとなく、またすぐに会える気がした。
反対方向の電車に乗る彼がドアの向こうで手を振る。
私も、そっと手を振り返した。
ドアが閉まって、電車が走り出す。
その瞬間。
“前とは違う今日”が、そっと始まっていた気がする。
家に帰って、スマホを開いた。
少しだけ期待していたその画面に、通知がひとつ届いていた。
「今日、ありがとう。
また歩こうぜ」
たったそれだけのメッセージ。
でもその文字の余韻が、胸の奥をじんわりあたためていく。
指が自然と動いていた。
「うん。またね」
今は、それで十分だった。
その日から、彼とのやりとりはぽつぽつと続いた。
毎日じゃない。
返事がすぐ来るわけでもない。
でも、通知に彼の名前が浮かぶたびに、呼吸をひとつ、深く吸いなおすような気持ちになる。
話すことは、本当に他愛もないことばかり。
新しく出たアイスの話。
校内放送で流れてきた、あの曲のこと。
電車でとなりの人が寝てきたとか、どうでもいいような話。
だけどその“どうでもいい”のやりとりの中に、たしかにあの頃の空気があった。
少しずつ、でもちゃんと、言葉にできないまま伝わっていく何かがあった。
ある日、彼から写真が送られてきた。
コンビニのおでんと、くだらない自撮り。
『まだ熱かった』
そんなコメントに、思わず笑ってしまった。
『バカじゃん』
そう返すと、すぐに『知ってる』って返事が届く。
やっぱり、なんにも変わってない。
だけど、少しだけ変わってる。
それが、なんだかうれしかった。
季節は、静かに次のページをめくるように変わっていく。
ふたりの関係は、まだ名前もなくて。
曖昧で、定義もなくて。
だけど、もうそれでいいって思えるくらいには、大人になっていた。
夜。ベッドに寝転びながら、彼からのメッセージを見返す。
どの言葉にも、ちゃんと“今の気持ち”がにじんでいた。
未読だった時間が、少しずつ塗り替えられていく感覚。
私の中に、ちゃんと今の“彼”が存在していく。
そんなある日、少しだけ長いメッセージが届いた。
「お前ってさ、
あんま人のこと、好きにならなそうだよね」
その続きに、少し間を空けて、もうひとこと。
「俺もそうだった。
でもさ……たぶん一回だけ、本当にそうなりかけてたんだと思う」
スマホを持つ手が止まった。
すぐには返せなかった。
でも、不思議と苦しくはなかった。
むしろ、静かに、あたたかいものが胸に流れていった。
あの卒業式の帰り道。
彼が「俺たちって、なんなんだろうな」って言ったとき。
私が何かひとことでも返せていたら、きっとなにかが変わっていたのかもしれない。
でも、もしあのとき付き合っていたとしても、きっと、うまくはいかなかったと思う。
あのときの私たちは、まだ何も知らなかったから。
恋じゃなくても。
恋人じゃなくても。
ちゃんと、たいせつな関係がある。
今、それがわかる。
そう思わせてくれたのが、ほかでもない彼だった。
スマホを胸の上に置いたまま、目を閉じた。
通知が鳴らない夜に、こんなふうに安らげるようになるなんて。
理由はわからないけど、自然にそう思えた。
週末、ふたたび同じカフェで会うことになった。
前と同じ、窓際の席。角の静かな場所。
あのときと同じ景色のはずなのに、光の入り方も、流れる空気も、なんとなく違って感じる。
たぶん、私たちのなかにあるものが、少しずつ変わってきたからだ。
彼はグラスの水をゆっくり揺らしながら、ふいに言った。
「もしさ、またふたりでどっか行くとしたら……どこがいい?」
「どこでもいいよ」
そう答えたあと、少しだけ考えてから、言葉を足した。
「人が少なくて、静かで、時間がゆっくり流れるようなとこ。
なんか、いまの私たちにちょうどいい気がする」
彼が笑って「たしかに」って言った。
この空気が、今のふたりにちゃんと馴染んでいるのがうれしかった。
帰り道。
彼の手が、ふと私の手の近くに来た。触れはしなかったけれど、その距離がとても自然だった。
この距離のまま、歩いていたいと思った。
言葉を交わさなくても、ちゃんと伝わる何かがあるような気がしていた。
改札の前で立ち止まる。
「じゃあ、またね」
私がそう言うと、彼は少し黙って、それからやさしく笑って言った。
「うん。じゃあ、また連絡するわ」
その一言が、いまの私たちのすべてだった。
名前のないままでもいい。
未完成なままでも、確かに続いている。
夜、ベッドに寝転びながらスマホを見つめる。
今日のやりとりを何度も見返していると、また画面がふわりと光った。
《1件の新着メッセージ》
開かなくても、たぶんわかっていた。
そっと画面をタップすると、そこには一言。
「今日は、いい日だったな」
胸の奥が、静かに鳴る。
私の指が、自然と動いた。
「うん。また歩こう」
それだけで、心がそっと満たされた気がする。
通知が鳴るたびに、この関係を少しずつ好きになっていける。
たとえ“恋人”じゃなくても、名前がつかなくても。
今は、君のいる静けさが、少しだけうれしい。
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