
始まりは、何気ない朝、春の光が差し込む教室。
朝のHR(ホームルーム)が始まるまでの時間、まだ少し眠たげなクラスメイトたちの声が飛び交っていた。
悠斗は自分の席に座り、なんとなく窓の外を眺める。
体育館の方角――ついさっきまで、朝練をしていた場所だ。
(今日は調子よかったな)
ハンドボール部のエースとして、日々の練習は欠かせない。
けれど、試合に向けての調整を終えても、なんとなく気持ちが落ち着かなかった。
それは――。
「おはよ、眠そうだね」
不意にかけられた声に、悠斗は顔を上げた。
そこには、クラスメイトであり、女子ハンドボール部のエースでもある菜月が立っていた。
「ん……ああ、おはよう」
「朝練してたでしょ? いつもより疲れてる顔してる」
「そっちこそ、昨日遅くまで練習してただろ」
菜月はくすっと笑いながら、悠斗の隣の席に座る。
二人の席は窓側の並びで、普段から何かと話す機会が多かった。
「ねぇ、今日の数学、小テストあるの知ってる?」
「……マジ?」
悠斗は軽く頭を抱えた。
「うわー、やばい……ぜんぜん分からねぇ」
昼休み、悠斗は数学のプリントを前にため息をついていた。
小テストの時間はもうすぐだ。
菜月は向かいの席からプリントを覗き込み、呆れたように笑った。
「え、ちょっと待って、これ解けてないの?」
「……バカにすんなよ」
「バカにしてるよ。ていうか、真面目にやってないでしょ?」
悠斗は「ぐっ」と言葉に詰まる。
確かに、数学はあまり得意じゃない。
「しょうがないなあ……」
菜月は自分のノートを開き、さらさらと問題を解いて見せる。
「ここ、こうやって整理すると解きやすいよ」と、手元を指で示しながら説明する。
(……近い)
悠斗は、ほんの数センチの距離に気づき、思わず視線を外した。
菜月はそんな悠斗の動揺に気づかず、「ほら、こうすれば簡単でしょ?」と微笑む。
(なんでこいつ、こんなに自然に距離詰めてくるんだ……)
何も意識していない風の菜月と、なぜか意識してしまう自分。
そのギャップに、悠斗は少しだけ苦しくなった。
放課後、悠斗は一人で数学のノートを開いていた。
さっき菜月に教えてもらったことを、もう一度復習してみる。
だが――。
「……ダメだ、集中できねぇ」
なぜか、さっきの菜月の顔ばかり浮かんでくる。
笑いながら「簡単でしょ?」と言った声。
ほんの少しだけ、自分の手元に触れた指先の感触。
悠斗は軽く頭を振った。
(何考えてんだよ……ただの友達だろ)
そう、友達。
クラスメイトで、ハンドボール部の仲間で――それ以上でも、それ以下でもない。
そう思うのに。
「……帰らないの?」
ふいに聞こえた声に、悠斗は驚いて顔を上げた。
そこには、菜月が立っていた。
「え?」
「なんか考え込んでたから。帰るの忘れてるのかと思って」
「……いや、ちょっと復習してただけ」
菜月は「そっか」と微笑んだ。
「じゃあ、また明日ね」
そう言って教室を出ていく菜月の背中を見送りながら、悠斗はぼんやりと思った。
(また、明日――)
たったそれだけの言葉なのに、胸が少しだけ締めつけられるのは、どうしてだろう。
翌日の昼休み、悠斗はいつものように昼飯を食べながら、クラスメイトたちの何気ない会話を聞いていた。
ハンドボールの試合の話、次のテストの話、週末の予定――どれも適当に聞き流していたが、ある話題が耳に引っかかった。
「なあ、相原ってさ、誰か好きなやついるのかな?」
「え、菜月? どうだろ……でもさ、この前、誰かに手作りのクッキー渡してたらしいぜ」
「え、それ本命?」
「さあ? でも、あんなの渡されたら意識するだろ」
何気ない会話。
けれど、その言葉が胸に突き刺さる感覚がした。
(……菜月が、誰かに?)
悠斗は気にしないふりをした。
ただの噂話。
しかも、菜月が誰を好きだろうと、自分には関係ない――はずだった。
それなのに、どうしてこんなに心がざわつくんだろう。
放課後、悠斗はいつものように教室に残っていた。
数学のノートを開いているが、内容は全く頭に入ってこない。
そのとき、目の前の席に菜月が座った。
「今日も勉強? 偉いね」
「……まぁな」
普段なら、自然に話せるのに。
今日は、どこかぎこちなくなってしまう。
(聞くべきじゃない。こんなの、ただの噂話なんだから)
でも。
知りたい。
「なあ、お前……誰かにクッキー渡したのか?」
気づけば、言葉が口をついていた。
菜月は少し驚いたように目を瞬かせ、それから微笑んだ。
「ああ、それ? ただのお礼だよ」
「お礼?」
「うん。前に、筆箱落としたときに拾ってくれた人がいてね。そのお礼に、ちょっとだけ作って渡したの」
それだけ。
なのに、悠斗の胸に広がっていたざわつきは、ゆっくりと消えていく。
「……なんだ、それだけかよ」
「え、なに? まさか、私が誰かに本命のクッキー渡したって思った?」
菜月はくすっと笑いながら、悠斗の肩を軽く小突く。
「いや、別に」
「ふーん?」
からかうような瞳。
悠斗はそれ以上、何も言えなかった。
それからしばらく、悠斗は自分が菜月を意識しすぎていることに気づき始めた。
いつも通り、隣の席で話しているのに。
昼休みにノートを見せてもらっているのに。
放課後、何気なく一緒に帰ることがあっても。
(俺、なんでこんなに気にしてるんだ?)
菜月は、特別なことをしているつもりはないのかもしれない。
けれど、悠斗にとっては、その何気ない言葉や仕草が、心を揺さぶる要因になっていた。
(……ダメだ、こんなの)
悠斗は無理やり、そんな感情を押し込める。
これはただの「クラスメイト」としての関係だ。
それ以上を望んではいけない。
ある日、部活が休みだった日のこと。
悠斗は雨が降る中、教室で一人で勉強していた。
他のクラスメイトはすでに帰っていて、教室には誰もいない――はずだった。
「……あれ、まだいたんだ?」
ふと、声がする。
振り向くと、菜月が教室の入り口に立っていた。
「お前こそ、帰らないのか?」
「うん、傘持ってなくて。止むの待ってた」
悠斗は窓の外を見る。
強く降っていた雨は、少し小降りになってきていた。
「……送ってやろうか?」
思わず、そう口にしていた。
菜月は少し驚いたように目を丸くし、それからふわりと笑った。
「うん、じゃあお願いしようかな」
二人で一本の傘。
いつも通りの距離なはずなのに、雨音が静かだからか、いつもよりも近く感じる。
「……」
悠斗は、言葉を探すように口を開きかけた。
でも、何を言えばいいのか分からない。
そんな沈黙の中、菜月がぽつりと呟いた。
「ねえ、高槻くんはさ……好きな人、いるの?」
悠斗は思わず、傘を持つ手を強く握る。
「……急にどうした?」
「なんとなく」
なんとなく、の意味が分からなかった。
「……いないよ」
悠斗は、嘘をついた。
隣で菜月が、ほんの少しだけ寂しそうに微笑んだのを、悠斗は見逃さなかった。
次の日も、その次の日も、悠斗は何も言えなかった。
菜月との距離は変わらない。
それなのに、何かが少しずつ、すれ違っていくような気がした。
「好きな人いるの?」の問い。
あのとき、もし本当のことを言っていたら――何かが変わっていたのだろうか。
答えを出せないまま、時間だけが過ぎていく。
「おはよう」
次の日も、菜月は笑って教室に入ってきた。
いつも通りの朝。
いつも通りの会話。
でも――。
(この気持ちは、どうしたらいいんだろう)
悠斗はただ、菜月の笑顔を見つめることしかできなかった。
※コメントは最大500文字、10回まで送信できます