『名前のない感情』

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 昼休み、俺は教室で軽く弁当をつまんでいた。

 部活の練習がハードすぎて、昼飯を食べる時間も惜しい。
 適当にかき込んでから、スマホをいじる。

「悠斗、ちょっと来て」

 突然、後ろから声をかけられた。

 振り向くと、そこには 相原菜月 がいた。

 同じハンドボール部の仲間で、女子チームのウイング。
 勝気でサバサバした性格のくせに、たまに無駄に面倒見がいい。

「……なんだよ」
「いいから、こっち」

 そう言って、俺の腕をぐいっと引っ張る。

「お、おい!?」

 周りのクラスメイトが何事かと視線を向けるが、菜月は全く気にしていない。
 俺は仕方なく、彼女に連れられて廊下へ出た。

「で、なんだよ?」

「……じっとして」

「は?」

 俺の言葉を無視し、菜月はじっと俺の顔を見つめる。

(近い、近い近い近い……!)

 いつもの距離感とは違う、妙に至近距離な視線。
 思わず後ずさろうとした瞬間――。

「はい、動かない!」

 菜月が俺の制服の襟を掴む。

「……ちょっと、まつげについてる」

「え?」

「じっとしてって言ったでしょ」

 そう言うと、菜月は 俺の顔にそっと手を伸ばした。

 指先が、軽く頬に触れる。
 そのまま、俺のまつげに何かを取るように、指が滑った。

 たったそれだけのことなのに、変に意識してしまう。
 ほんの数秒だけど、妙に長く感じる時間。

「……よし、取れた」

 菜月は、指先についたまつげをひらひらと見せた。

「ほら、願い事叶うやつ」

「……え?」

「まつげ取ったら願い事叶うって、昔から言うじゃん」

「あ、ああ……」

 俺は無意識に、視線を逸らした。
 こんなくだらない迷信、別に信じるタイプじゃないけど――。

(なんだ、この感じ)

 鼓動が、さっきより少しだけ早くなっている気がした。

「……で? 何お願いすんの?」

 菜月がニヤッと笑う。

「え、いや、別に」

「えー、せっかくだし言ってみなよ」

「いや、ねぇよ」

「もしかして、好きな子と両想いになれますように……とか?」

「ぶっ……ねぇよ!」

 思わず声が裏返る。

「ははっ、図星?」

「違ぇよ!」

 菜月は楽しそうに笑ってから、「ま、いいけど」と肩をすくめた。

「でもさ、願い事って、心の中で言う方が叶うんだよ」

「……は?」

「だから、ちゃんと考えときなよ」

 そう言って、菜月は軽く手を振り、教室へ戻っていった。

 俺は、まだ少し熱くなった顔を誤魔化すように、手でゴシゴシこする。

(……こんなの、願い事にするわけねぇだろ)

 だけど、頭のどこかで、ぼんやり考えてしまう。

 もし、今願い事をするなら――。

(……いや、ねぇって)

 自分に言い聞かせながら、俺は菜月の後を追うように、教室へ戻った。

 放課後、ハンドボールの練習が終わり、俺は体育館裏でストレッチをしていた。
 今日のメニューはいつも以上にハードで、汗が止まらない。

「ふー……」

 息を整えながら、空を見上げる。

 さっきの練習、全然集中できなかった。
 ミスも多かったし、監督からも「いつも通りのプレーができてないぞ」なんて言われる始末。

(……わかってるよ)

 原因は、昼休みの出来事。

 菜月の手が触れた感覚。
 至近距離で見つめられた時間。
 「何お願いすんの?」の言葉が、頭から離れない。

(別に、なんでもない……はずなんだけど)

 それなのに、考えれば考えるほど、胸の奥が妙に落ち着かなくなる。

「悠斗?」

 聞き慣れた声に、俺はハッとして振り返った。

 そこには、タオルを肩にかけた菜月が立っていた。

「何してんの?」

「……ストレッチ」

「ふーん」

 菜月は俺の隣に立つと、髪をかき上げながら小さく笑った。

「今日の悠斗、ちょっと変だったね」

「……何が」

「プレー。ミス多かったし、集中できてなかったでしょ?」

「……」

 図星だった。

 適当に誤魔化そうとしたけど、菜月はじっと俺の顔を見てくる。

「なんか悩みでもあんの?」

「……いや、別に」

「嘘。悠斗ってさ、わかりやすいよ?」

「……そうか?」

「うん。少なくとも、あたしにはね」

 ――ドキッ。

 そんなつもりはなかったのに、なんか心臓が跳ねた。

「……あたし、悠斗が調子悪いと気になるんだよね」

 菜月は、少しだけ視線を落として呟く。
 さっきまでの冗談っぽい雰囲気じゃない。

「なんでだろ。……別に、いつもの悠斗なら、ちょっとくらいミスしても気にしないのに」

 俺は、思わず菜月の横顔を見つめた。

(……こいつ、何言ってんだ?)

 胸の奥が、またざわつく。
 今まで、こんな言い方をされたことはなかった。

 けど――もしかして、菜月も 「なんか変だ」 って感じてるんだろうか。

「……悠斗?」

「え?」

「ちょっと」

 突然、菜月が俺の顔を覗き込む。
 俺は驚いて思わず後ずさった。

「な、なんだよ」

「……顔、赤い」

「は!? 汗だろ!」

「そ?」

 菜月はニヤッと笑い、ポンと俺の肩を叩いた。

「ま、元気ならいっか。あたし、もう行くね」

 そう言って、菜月はタオルで首を拭きながら、体育館の方へ歩き出した。
 だけど、最後に一言。

「……あんまり、考えすぎんなよ?」

 俺の背中越しに、軽く呟くような声が聞こえた。

 振り返る前に、菜月はもう行ってしまっていた。

(……なんなんだよ、ほんと)

 深く息を吐きながら、俺はしゃがみ込む。

(なんで、こんなに意識しちまうんだ)

 今まではただのチームメイトだったのに。

 でも、気づいてしまった。

 俺は、菜月の言葉に「ドキッとした。」

 次の日の昼休み。

 俺は、いつも通りハンドボール部の仲間たちと適当に弁当をつまんでいた。
 練習があるから、昼休みもゆっくりできる時間は少ない。

「悠斗、今日の練習はガチだからな!」
「わかってるって」

 適当に返しながら、ふと菜月の姿を探してしまった。

(……いや、なんで探してんだよ)

 昨日の放課後から、ずっと頭に残ってる。
 「悠斗ってわかりやすいよ?」って言った菜月の声。
 「考えすぎんなよ?」っていう最後の一言。

 なんか、モヤモヤする。

「おーい、悠斗」

 横からポンと肩を叩かれる。
 見ると、凛音が立っていた。

「なに考えてんの?」
「別に」
「嘘。今、誰か探してたでしょ?」

 ――ドキッ。

 図星を突かれた気がして、一瞬言葉に詰まる。

「……そんなんじゃねぇよ」
「ふーん?」

 凛音はニヤッと笑って、俺の前に座った。

「ねえ、悠斗」
「……なんだよ」
「菜月のこと、最近ちょっと気にしてない?」

「は?」

「なんか、悠斗の視線がそっち行ってる気がするんだけど?」

「ねーよ」

「へぇ~?」

 凛音は俺の顔をじっと見つめる。
 からかい半分、本気半分って感じの目だ。

(……こいつ、鋭いんだよな)

 でも、俺だって 別に「好き」とかじゃない。
 ただ――なんか、気になるだけで。

「じゃあ、もし今、菜月が誰かと仲良さそうにしてても、何とも思わない?」

「……は?」

「例えばさ、菜月が他の男子と仲良く喋ってたら?」

「……別に」

「そっか」

 凛音はわざとらしく肩をすくめる。

「じゃあ、あれはなんでもないってことね」

「……あれ?」

 嫌な予感がして、凛音の視線を追った。
 すると、廊下の向こう――窓際で、菜月が別の男子と話していた。

 相手は 桐ヶ谷 隼。

 チャラチャラして、いつも適当なことばっか言ってるくせに、なぜか女子には妙に優しい。

(……なんで、桐ヶ谷?)

 別に、ただ喋ってるだけ。
 菜月は特に笑ってるわけでもないし、隼もいつも通りの軽いノリっぽい。

 なのに、何故か 嫌な違和感 があった。

(……何これ)

 いつもなら気にもしないのに。
 なんでこんなに 落ち着かなくなるんだ?

「……ほら、無意識に気にしてる」

 凛音がクスクス笑いながら、俺の顔を覗き込む。

「何も思わないんじゃなかったの?」

「……別に」

 言いながら、 自分の声が少しだけ引っかかるのを感じた。

 放課後、ハンドボールの練習が終わった後も、俺はなんとなく落ち着かなかった。

 昼休みに見た 菜月と桐ヶ谷が話している光景。
 ただの会話だったはずなのに、なぜか妙に引っかかっている。

(……俺、何気にしてんだ?)

 別に、菜月が誰と喋ろうが関係ない。
 そう思ってるはずなのに、気づけば彼女のことを考えている自分がいた。

「悠斗?」

 背後から声をかけられ、俺は反射的に振り返る。

 そこにいたのは菜月だった。

「なに、一人で黄昏れてんの?」

「……別に」

「嘘。絶対なんか考えてたでしょ?」

 菜月はニヤッと笑って、俺の横に並ぶ。
 いつも通りの軽いノリ。

(……いつも通り、か?)

 なんとなく違う気がした。

「悠斗、今日の練習、ちょっとミス多かったね」

「……うるせぇ」

「図星でしょ?」

 菜月は肩をすくめて笑う。

 そんな彼女の横顔を見ていると、昼の出来事がふと蘇る。
 気にしなくていいはずなのに、どうしても言葉が出てしまった。

「……桐ヶ谷と、何話してたんだよ」

「え?」

 菜月が一瞬、驚いたように目を丸くする。

「……別に、たいしたことじゃないよ。向こうが適当に話しかけてきただけ」

「……ふーん」

 たいしたことない、か。
 それなら別にどうでもいい。
 なのに――なんだ、この 胸の奥に残るざわつき は。

「なんで、そんなこと聞くの?」

 菜月がじっと俺を見上げる。

「……なんでって、別に」

「まさか、悠斗……」

「……」

「……あたしのこと、気にしてんの?」

 ――ドキッ。

 心臓が跳ねる音が、聞こえた気がした。

「は!? ねぇよ!」

「……そ?」

 菜月は少しだけ口角を上げて、俺の顔をじっと見つめる。

「じゃあ、もう一回聞くけど」

 ゆっくりと、一歩、俺の方へ近づく。

 距離が縮まる。
 心臓がうるさい。

「悠斗、なんでそんなこと聞いたの?」

「……っ」

(……なんで、俺、気にしたんだ?)

 本当に「たいしたことない」なら、聞く必要なんてなかったはずだ。
 でも、気になった。
 確かに、俺は――

「……さぁ」

 なんとか誤魔化すように、俺は視線を逸らした。

 菜月は俺をじっと見つめたまま、小さく笑う。

「ま、悠斗が自分の気持ちに気づくの、もう少し時間かかるかもね」

「……は?」

「ほら、そろそろ帰ろ?」

 そう言って、菜月はくるりと背を向ける。

 俺は、その背中を黙って見送った。
 答えの出ない、この気持ちを抱えたまま。

 翌日の放課後。

 俺は体育館の片隅でシューズの紐を結び直していた。
 今日の練習は、やけに気が入っていた。

(なんか、昨日のモヤモヤを吹き飛ばしたくて)

 ただ夢中でボールを追いかけた。
 走って、パスを受けて、シュートを決める。

 それだけのはずなのに、ふとした瞬間に、
 菜月の言葉が頭をよぎる。

 「悠斗、なんでそんなこと聞いたの?」

(……俺、なんで聞いたんだろうな)

 気にしてないなら、聞かなくてよかった。
 でも、気づけば、あの光景が頭に残っていて――。

「悠斗!」

 呼ばれて顔を上げると、菜月が立っていた。

「お前も帰るとこ?」

「うん。でもその前に……ちょっといい?」

「ん?」

 菜月は、少しだけ息を吸って、俺の方をじっと見つめた。

「昨日の話なんだけどさ」

「……」

「悠斗、結局なんで気にしたの?」

 また、その話。
 わざわざ帰り際に聞きにくるってことは、
 菜月も俺がどう答えるか、気になってるんだろう。

「別に、理由なんてねぇよ」

「ふーん」

 菜月は笑いながら、一歩近づく。

「でもさ、悠斗」

「……なんだよ」

「ほんとは気づいてるでしょ?」

 ――ドキッ。

 胸が、静かに跳ねる。

 菜月は、それ以上何も言わなかった。
 ただ、俺の顔を見上げて、ニヤッと笑う。

「ま、悠斗が自分の気持ちに気づくの、もうちょっと先かもね」

 昨日と同じ台詞。
 でも、今度は少し違って聞こえた。

「……うるせぇ」

 俺は、照れ隠しのようにぼそっと呟いた。

 菜月は何も言わず、くるりと背を向ける。
 そして、歩き出す直前――。

 ほんの一瞬だけ振り返って、
 軽く手を振った。

「また明日ね」

「……ああ」

 俺はその背中を見送りながら、
 自分の胸の奥で、小さな何かが変わっていくのを感じた。

(……これって、何なんだろうな)

 まだ、はっきりした答えは出ない。
 でも、一つだけ確かなことがあった。

 ――菜月の言葉が、今までよりずっと心に残っている。

 これまでと同じようで、少しだけ違う気がする。
 その違いを、俺はまだ掴みきれずにいた。

 でも、それでいい気がした。


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