
体育館の扉が静かに閉まる音が響いた。
夕暮れが差し込む中、ハンドボール部の練習が終わった後の体育館には、ほとんど人がいなかった。残っているのは、シュート練習を続ける悠斗と、少し離れた場所で自分のボールを転がしている菜月だけ。
菜月は、意識しないふりをしながらも、視線の端で悠斗の動きを追っていた。
(なんでだろう……)
自分の気持ちが、はっきりとわからない。
男子と女子、チームは別々。それでも同じ体育館を使い、練習の時間がかぶることもある。彼と話す機会は決して多くないけれど、まったくないわけでもない。
ただ、なぜか――今、この空間に二人きりという状況が、普段とは違う意味を持っている気がした。
「……また残ってるの?」
不意に菜月が声をかけた。
驚いたように顔を上げると、彼はシュートの体勢を解いてこちらを見ていた。バスケットゴールの下に転がったボールを拾い上げると、悠斗はごく自然に菜月の前に立った。
「うん……ちょっと、考え事してた」
「ふーん」
悠斗は、それ以上は何も言わず、またゴールに向かって歩き出した。
(そういうとこ、ほんと変わらないな)
相手が何を考えていようと、無理に踏み込んでこない。かといって、気にしていないわけでもない。悠斗はいつも、絶妙な距離感を保っていた。
菜月は小さく息を吐いて、自分のボールを手に取った。
壁に向かって軽くシュートを放ち、それを跳ね返す。そんなことを繰り返しながら、何度も視線が彼の方へと引き寄せられるのを、自分で止めることができなかった。
悠斗は、ただひたすらシュートを打ち続けている。汗が流れる額を腕で拭いながら、何度も同じフォームで。
……その姿を、ずっと見ていられる気がした。
気づけば、菜月の手が止まっていた。
「――あのさ」
思わず、声をかけていた。
「ん?」
シュートの途中だった悠斗が、少し驚いたようにボールをキャッチする。
菜月は、一瞬迷った。
何を言おうとしたのか、自分でもはっきりしていなかったから。
(なんで呼び止めたんだろう、私)
言葉に詰まる菜月に、悠斗は「なんだよ」と苦笑しながらボールを片手に持ち直した。その仕草が、思っていた以上に自然で――いつも通りで――余計に胸がざわつく。
「えっと……」
誤魔化すように適当な言葉を探す。
「……自主練、頑張ってるね」
自分でも意味のない言葉だとわかっていた。
でも、悠斗は特に気にする様子もなく、肩をすくめる。
「そりゃあな」
「……なんでそんなに続けられるの?」
「んー……」
悠斗はボールをついたまま、少し考え込んだ。
「……やるしかないから、かな」
「やるしかない、って?」
「全国、行きたいから」
悠斗は、まっすぐな目でそう言った。
その瞬間、菜月の胸に、強く何かが突き刺さる。
(ああ……)
そうだ。
この人は、いつだってまっすぐなんだ。
迷ったり、悩んだりすることもあるのかもしれないけれど、それでも最終的には「やるしかない」と言い切れる人。
そんな悠斗のことを――
(私、ずっと見ていたかったんだ)
けれど、それを自覚した瞬間、急に居心地の悪さを覚えた。
「……そっか。頑張ってね」
それ以上、余計なことを言う前に、菜月は小さく笑ってボールを拾った。
「おう」
悠斗は、またシュートの体勢に戻る。
菜月は、壁に向かってボールを投げる。
ふたりの距離は変わらないまま。
だけど、目が合ったら、きっとすぐに何かが変わってしまいそうな気がして――
菜月は、行き場のない視線を、そっと手元のボールに落とした。
一一まるで、何もなかったのように。
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