
夕焼けに染まる体育館の影が、校庭の端まで伸びていた。
男子ハンドボール部の練習が終わる頃、悠斗は汗を拭いながら息を整える。
「お疲れー!」
明るい声が響き、悠斗の背後から肩をポンと叩く手があった。
振り向くと、圭吾がニヤリと笑って立っている。
「今日のシュート、ちょっとキレ悪かったんじゃない?」
「……うるせぇ、余計なお世話だ」
「ははっ、お前が疲れてると俺が目立つから楽しいけどな!」
圭吾はふざけながらも、しっかりと悠斗の状態を見ている。
悠斗はチームメイトとしての彼の気遣いを理解しつつ、素直に感謝を言うのは照れくさかった。
「つーか、お前さ、昼休みに菜月と何話してた?」
「……は?」
悠斗はタオルで顔を拭きながら、圭吾の言葉に眉を寄せる。
昼休み――確か、菜月に数学を教えてもらっていたはずだ。
「いやさ、菜月がめっちゃ真剣な顔して、お前に何か言ってたっぽいから」
「ああ……別に、大したことじゃねぇよ」
「ほんとに?」
圭吾は腕を組み、じっと悠斗を見つめる。
その顔は、単なる興味本位ではなく、何かを探るような鋭さを持っていた。
「……ったく、お前が気にするような話じゃねぇって」
「ふーん? ま、いいけどさ」
圭吾は肩をすくめると、体育館の外に向かって歩き出した。
悠斗も後を追う。
部活終わりの夕暮れ。
これが、いつも通りの帰り道のはずだった。
「悠斗、お疲れさま」
校門の近くで、菜月の声がした。
彼女は女子ハンドボール部の練習を終えたばかりで、髪を後ろでひとつにまとめながら悠斗を見つめていた。
「おう、お前もな」
悠斗が軽く手を上げると、菜月は小さく笑った。
圭吾はその様子を見て、面白そうに口元を緩める。
「お? これはもしや、待ち伏せってやつ?」
「は? 何言ってんの?」
菜月が少しむっとした顔をすると、圭吾は「冗談だよ」と笑いながら手をひらひらと振った。
「でもさ、最近お前ら、めっちゃ一緒にいるよな」
「……別に、たまたまだろ」
悠斗がそっけなく答えると、菜月はほんの少しだけ視線を落とした。
「……うん。たまたまだよ」
その声が、どこか寂しげに聞こえたのは気のせいだろうか。
「おいおい、なんか俺、気まずくなってね?」
圭吾が苦笑しながら後ろに下がると、菜月は「別に」と言いながら悠斗の方を見た。
「ねえ、悠斗。今日さ、ちょっと話したいことあるんだけど……いい?」
悠斗は少し驚いたが、菜月の表情が真剣だったので、ふざけることなく頷いた。
「いいけど、ここじゃダメなのか?」
「……ううん。ちょっと歩かない?」
圭吾は「あれ、俺はお呼びじゃない感じ?」と冗談めかしながら言ったが、悠斗は「たまには遠慮しろよ」と軽く笑った。
「へいへい、じゃあ俺は適当に帰るわ」
そう言って、圭吾は手を振りながら校門の外へと歩いていった。
「さて、じゃあ……話って?」
悠斗は改めて菜月を見る。
彼女は少し考えるような素振りを見せた後、静かに口を開いた。
「……あのさ、私、悠斗に聞きたいことがあるんだけど……」
彼女は一度言葉を切り、ほんの少しだけ視線を彷徨わせる。
そして――。
「悠斗って……好きな人、いる?」
その言葉に、悠斗は思わず息をのんだ。
(……また、これかよ)
以前も、雨の日に同じようなことを聞かれた。
そして――あのときも、悠斗は「いない」と嘘をついた。
だが、今は――。
「……どうして?」
悠斗が慎重に問い返すと、菜月は小さく息を吐き、どこか決意したような顔で言った。
「……もし、いるなら、ちゃんと教えてほしいなって思って」
悠斗は、言葉を詰まらせた。
それは、どういう意味なのか。
ただの興味本位か、それとも――。
その答えを出す前に、菜月はふっと笑った。
「……ごめんね、変なこと聞いて」
そして、少しだけ寂しそうに目を伏せた。
悠斗の胸の奥で、何かがちくりと痛んだ。
(本当は、もう決まってるんだよ)
でも、それを言えば、何かが変わってしまう気がした。
だから、悠斗はまた――。
「……いないよ」
嘘をついた。
その瞬間、菜月の表情が、ほんのわずかに陰った気がした。
「そっか……」
菜月の声は、小さく掠れていた。
帰り道、菜月が呟いたときの声が、悠斗の耳に残っていた。
嘘をついた。
本当は、いる。だけど、それを言ってしまったら、この距離感が変わってしまう気がして。
それが怖かった。
翌日、悠斗は圭吾と昼休みの教室で話していた。
「なあ悠斗、お前最近なんかあった?」
「……なんだよ、急に」
「いやさ、なんかお前の様子、ちょっと変じゃね?」
「変じゃねーよ」
悠斗はそう言いながら、なんとなく窓の外に目を向ける。すると、向こうの廊下で菜月の姿が見えた。女子の友達と談笑しながら歩いている。
その笑顔は、いつもと同じだった。でも、昨日の帰り道で見せた表情がふと脳裏に浮かび、悠斗は目を逸らした。
「ほら、また何か考えてる顔してる」
「してねぇよ」
「いや、してるね。ズバリ、相原のことだな?」
「……は?」
悠斗は反射的に睨みつけたが、圭吾はまったく怯まずニヤリと笑った。
「お前さ、もうちょい分かりやすく隠せよ。昨日、校門のとこで話してただろ?」
「……見てたのかよ」
「まあな。で、何話してたんだ?」
「……別に」
「別に、ねえ……」
圭吾は腕を組み、じっと悠斗を見つめる。そして、ふっと真剣な表情になった。
「なあ悠斗、お前、本当は相原のこと好きなんじゃねえの?」
「……は?」
「だからさ、お前がどう思ってるのかって話だよ」
「……関係ねぇだろ」
「そう言うと思った」
圭吾は肩をすくめながら、悠斗の肩をポンと叩く。
「でもな、悠斗。俺はお前が気づいてないだけだと思うぜ?」
「……何が」
「お前、自分の気持ちもそうだけど、相原の気持ちも、ちゃんと見えてねぇだろ?」
その言葉に、悠斗は一瞬、言葉を失った。
(菜月の……気持ち?)
そんなもの、考えたこともなかった。
放課後、悠斗は部活の後、グラウンド横のベンチで座っていた。ふと、足音が近づく気配がする。
「悠斗?」
菜月だった。
「お疲れ」
「おう……」
悠斗はなんとなく目を合わせられず、手元のペットボトルのキャップを開けたり閉めたりする。そんな彼の様子を見て、菜月は少し困ったように微笑んだ。
「ねえ、今日さ、私の試合……見てた?」
「ああ……ちょっとだけ」
本当は、練習の合間に何度も目を向けていた。でも、そう言うのはなんだか恥ずかしくて、適当に誤魔化す。
「そっか。……どうだった?」
「……まぁ、悪くなかったんじゃねぇの」
悠斗は視線をそらしながら答える。すると、菜月は小さく笑った。
「そっか。悠斗に褒められると、なんか嬉しいね」
「……お前、俺のことなんだと思ってんだよ」
「んー……チームメイト?」
「それだけかよ」
悠斗が少し冗談めかして言うと、菜月はふっと黙った。そして、何かを迷うように視線を落とす。
その沈黙が、やけに長く感じた。
「ねえ、悠斗……私ね、誰かを好きになるって、よく分からないんだ」
ぽつりと、菜月が呟く。悠斗は驚いて顔を上げた。
「……急にどうした」
「分からないけど、最近ずっと考えてる。好きって、どういう気持ちなんだろうって」
「……」
悠斗は、何も言えなかった。
それは、まるで「答えを探してる」みたいな言葉だった。
悠斗の胸の奥が、またちくりと痛む。
「それって……誰かに対して、そう思ってるってことか?」
「うーん……そうかもしれないし、違うかもしれない」
菜月は、少し困ったように笑う。そして、悠斗の方をじっと見つめた。
「悠斗は、どう思う?」
「俺?」
「うん。悠斗は、好きな人、いるの?」
また、その質問。
悠斗は息を詰まらせた。
どうして、こんなに何度も聞いてくるんだろう。
答えは、ずっと決まっているのに。
「……いないよ」
また、嘘をついた。
菜月は、それを聞いて、小さく微笑んだ。
「そっか……」
その表情は、どこか寂しそうで、そして、ほんの少しだけ安心したようにも見えた。
「……そろそろ帰ろっか」
「……ああ」
二人は並んで歩き出す。
すれ違う気持ちを抱えたまま。
それでも、並んで歩いているうちは、まだ大丈夫な気がした。
翌日、悠斗が教室に入ると、すでに圭吾が席についていた。
「よっ、お前また相原と帰ったのか?」
「……ああ」
「そっか。で、何か進展した?」
「……別に」
「またまたー、嘘つけよ」
圭吾はふっと笑いながら、悠斗の背中を軽く叩く。そして、少しだけ真剣な表情になった。
「なあ悠斗、お前……いつまで誤魔化してるつもりだよ?」
「……何がだよ」
「もう気づいてるくせに」
悠斗は、何も言えなかった。
気づいている。
でも、言葉にするのが怖かった。
言葉にしたら、戻れなくなる気がして。
昼休み、悠斗が窓の外を眺めていると、菜月が教室に入ってきた。
「悠斗、今日の昼休み、一緒に食べない?」
「ああ……いいけど」
悠斗は立ち上がりながら、ふと考えた。
この距離感は、いつまで続くんだろう。
言葉にしなければ、このままでいられるのかもしれない。
でも――それで、本当にいいのか?
悠斗は、菜月の笑顔を見つめながら、静かに息を飲んだ。
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