
昼休み、教室の片隅。
「おい悠斗、ちょっと腕相撲やろうぜ!」
突然の申し出に、悠斗は弁当の箸を止め、隣の圭吾を見た。
「……なんで?」
「いや、なんかこう、男子としての意地ってやつ?」
「意味わかんねぇ……」
悠斗は呆れながらも、圭吾がニヤニヤと挑発するように腕を組んでいるのを見て、仕方なく向かい合った。
机の上に肘をつき、手を組む。
「おーい、圭吾がまた無謀なことしてるぞ!」
「どうせ秒で負けるんじゃね?」
周囲の男子が面白そうに集まってくる。
菜月も気づいたのか、手に持っていたペットボトルを置いて近づいてきた。
「なに? 何してるの?」
「圭吾が悠斗に腕相撲挑んでんの」
「……えっ、圭吾くんが?」
「おい、なんだその反応! 俺だって男だぞ!」
「いや、どう考えても悠斗の方が強いでしょ」
「くそっ、こうなったら意地でも勝ってやる!」
圭吾は気合を入れ、息を吸い込んだ。
「よーし……せーの!」
開始の合図とともに、圭吾は全力で悠斗の手を押しにかかる――が。
まったく動かない。
「……ん?」
「おい、どうした?」
「ちょっ……マジで動かねぇんだけど!?」
圭吾が必死に力を込めるが、悠斗は微動だにせず、余裕の表情で腕を固定している。
「……お前、本気か?」
「本気だよ! てか、なんでこんなに強いんだよ!」
「ハンドボール部だし」
「俺もハンド部だよ!」
悠斗は肩をすくめると、軽く手首を返した。
バタンッ!
「うわぁぁあ!!」
圭吾の腕が机に叩きつけられ、周囲の男子たちが爆笑する。
「やっぱり秒で終わった!」
「圭吾の情けない顔やばいな!」
「ちくしょう……」
圭吾は敗北の悔しさを噛み締めながら、机に突っ伏した。
「まぁ、お前はよくやったよ」
「バカにしてるだろ」
「ちょっとだけ」
「くそっ……こうなったら!」
圭吾は何かを思いついたように、顔を上げる。
「菜月、お前がやれ!」
「……は?」
「悠斗と腕相撲しろ!」
唐突な指名に、菜月は驚いたように目を瞬かせた。
「えっ、私が?」
「そう! 女子の力でもワンチャンあるかもしれない!」
「いや、ないだろ」
「やってみなきゃわかんねぇだろ!?」
圭吾の勢いに押され、菜月は悠斗をちらりと見る。
「……悠斗、どうする?」
「別に、いいけど」
悠斗が何でもないように言うと、菜月は少しだけ考えてから、机の前に座った。
「じゃあ、やってみる?」
「おう」
二人が机の上で手を組む。
悠斗の手は大きく、温かかった。
ふと、菜月が少しだけ表情を曇らせる。
「……やっぱ、無理かも」
「え?」
「だって、悠斗、手大きいし。私が勝てる気しない」
「やってみなきゃわかんねぇだろ!」
圭吾が後ろから煽る。
「お互い、手を組んで――さぁ想いを伝えて!」
「はぁ!?」
悠斗と菜月の声が同時に響いた。
「ちょ、何言ってんの圭吾!」
「いやいや、だって手を握るなんて、普通の試合よりも特別な時間じゃん?」
「お前、腕相撲の意味わかってんのか?」
「わかってるよ! ほら、悠斗、もっと真剣な顔しろ!」
「お前が真剣になれ」
「ほらほら、悠斗くん、菜月のことちゃんと見つめて!」
「おい圭吾!!」
悠斗が怒鳴るが、圭吾は爆笑しながら茶化し続ける。
一方の菜月は、顔を真っ赤にして、困ったように俯いた。
「……やっぱ、無理」
「えー!? せっかくなのに!」
「圭吾がいちいち茶化すから!」
「いやでも、お前らの反応が面白すぎるんだもん!」
周囲のクラスメイトたちも笑いながら、二人の様子を見守っていた。
「……ったく、アホかお前は」
悠斗は呆れながら、組んでいた手をそっと離した。
菜月も小さく息を吐きながら、微かに微笑む。
二人の様子を見て、圭吾は満足げに頷く。
「よしよし、青春だな!」
「お前は黙っとけ」
悠斗が軽く拳を振り上げると、圭吾は「やめてやめて!」と笑いながら逃げていく。
こうして、休み時間の小さな力比べは終わった。
でも――菜月の胸の奥には、妙な温かさが残っていた。
休み時間の騒ぎが収まり、教室には再び普段の空気が戻っていた。
けれど――。
「……」
悠斗は、自分の手をじっと見つめていた。
さっきまで、菜月の手を握っていた感触が残っている。
もちろん、ただの腕相撲だ。勝負が始まる前に終わったようなものだったし、圭吾の茶化しがなければ、何の感情も生まれなかったはず。
(……なのに)
悠斗は、なんとなく胸の奥がむずがゆくなるような、落ち着かない感覚を覚えていた。
机の上で指を組んでみる。
(やっぱ、菜月の手……小さかったよな)
指先がほんの少し触れただけなのに、それが思った以上に意識に残っていることに気づき、悠斗は軽く頭を振った。
「……なんだ、これ」
そんな自分に呆れながら、窓の外へと目を向ける。
――その時。
「悠斗~!」
いきなり背後から圭吾の声が響き、悠斗は肩を跳ねさせた。
「うわっ、なんだよ急に」
「いやいや、さっきの腕相撲、お前ちょっと意識してたろ?」
「……は?」
「ほら、今めっちゃ真剣な顔してた!」
「何も考えてねぇよ」
「いやいや、考えてただろ。なー、菜月?」
圭吾がひょいっと菜月の方を振り向く。
「……なに?」
菜月はノートを開いていたが、明らかに微妙な表情をしていた。
「さっきのさ、悠斗と腕相撲してるとき、ちょっとドキッとしなかった?」
「はぁ!? 何言ってんの?」
「いやいや、だってさ、悠斗と手ぇ組んで、見つめ合って、しかもあの距離感……これ、もう青春以外の何でもないでしょ!」
圭吾が得意げに腕を組むと、菜月はじっと彼を睨んだ。
「圭吾、マジで黙れ」
「お、怖っ! でも気になるんだよね~、実際どうだったん?」
「……な、なんでもないってば!」
菜月は頬を少し赤くしながら、そっぽを向いた。
その反応を見て、悠斗はなぜか妙に落ち着かなくなった。
(菜月も……ちょっとは意識してたのか?)
――そんなわけ、ない。
でも、一瞬目が合ったときの菜月の顔を思い出して、悠斗は視線を逸らした。
「なぁ悠斗、お前もさ――」
「うるせぇ」
「うぉっ、いきなりの低音ボイス」
悠斗はめんどくさそうに立ち上がる。
「ちょっとトイレ」
「おー、逃げた逃げた!」
「黙れ」
悠斗は面倒くさそうに言いながら、教室を出た。
悠斗がトイレに行った後、菜月はため息をつきながら圭吾を睨んだ。
「……圭吾、ほんとに余計なことばっか言うよね」
「いやいや、あれは俺の使命だから!」
「使命って何よ」
「お前らが鈍感すぎるから、俺がこうやって仕掛けてやらないとさ?」
「……鈍感?」
「そ。悠斗もお前も、お互いなんか意識してんのに、それを認めようとしないんだもん」
「……」
圭吾の言葉に、菜月は少しだけ口を閉じた。
(私、悠斗のこと……意識してた?)
たしかに、さっき手を握ったとき、心臓がちょっとだけ跳ねた。
でも、それは腕相撲という状況だったからで――。
(それだけ……だよね?)
「ま、俺は二人のこと応援してるからさ!」
「……だから、何を応援するのよ」
「青春!」
「はぁ……」
菜月はもう何も言わず、ノートを閉じた。
その日の放課後。
悠斗が部活を終えて校門を出ると、菜月が待っていた。
「菜月?」
「あ、ちょうどよかった。帰るとこ?」
「ああ」
「じゃあ、一緒に帰ろ?」
「……別にいいけど」
悠斗は横に並び、ゆっくりと歩き出す。
しばらくは無言だった。
でも、なんとなくさっきのことを思い出し、悠斗はちらっと菜月を見る。
「……あのさ」
「ん?」
「さっきの腕相撲、やっぱ、やらなくてよかったんじゃね?」
「え? どうして?」
「……いや、お前、ちょっと恥ずかしそうだったし」
「……それは、圭吾が茶化すからでしょ」
「それもあるけど」
悠斗はぼんやりと考える。
手を握って見つめ合う。
それだけで、こんなに意識してしまうものなのか。
「……なんか、変だよな」
「何が?」
「いや、なんでもねぇ」
悠斗がそう言うと、菜月はくすっと笑った。
「悠斗って、こういうとき、絶対ちゃんと言わないよね」
「……」
言い返そうとしたけど、できなかった。
そして、沈黙。
でも、なぜか心地悪くはなかった。
「……まあ、楽しかったけどね」
菜月がふと呟く。
「え?」
「腕相撲。圭吾のせいで変な感じになったけど、ちょっと面白かったし」
「……そっか」
「悠斗は?」
「……まあ、悪くなかった」
その言葉に、菜月はまた笑った。
「それ、最高の褒め言葉だよね?」
「うるせぇ」
そんな何気ない会話をしながら、二人は並んで歩いていった。
今日も、特別なことは何もない。
ただ――少しだけ心が揺れた放課後 だった。
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