
部活が終わり、体育館を出ると、冷たい風が頬をかすめた。
もうすぐ春が来るはずなのに、まだまだ空気は冬の名残を残している。
外はすっかり暗くなりかけていて、オレンジ色の夕日がグラウンドの端を染めていた。
「悠斗ー、帰り一緒に帰ろ?」
体育館の入り口で、菜月が軽く手を振る。
「ん? いいよー」
そう返事をしながらも、悠斗は少し考えるように視線を逸らした。
「……あーでも、今日はちょっと遅くなるかも」
「え?」
予定外の返答に、菜月は思わず足を止める。
「なんで?」
「んー、ちょっと用事があって」
悠斗は曖昧に答えたが、それ以上詳しく言うつもりはなさそうだった。
(何の用事なんだろ……)
別に気にすることじゃない。そう思いながらも、どこか引っかかる。
「そっか。でも、あんまり遅いと先帰っちゃうよー?」
軽く冗談めかして言うと、悠斗は「おー、気をつけてなー」と笑いながら手を振った。
菜月は、「じゃあねー」と手を振り返し、その場を離れた。
校門へ向かう途中、何となく悠斗の「ちょっと遅くなるかも」という言葉が頭に残る。
(別に、特別なことじゃないよね)
そう思おうとしても、なぜかすっきりしない。
風が吹き抜けるたびに、肌寒さとは別の、どこか落ち着かない気持ちが胸の奥でくすぶる。
ふと、鞄の中を探る。
(忘れ物……ないよね?)
筆箱や教科書を手で探りながら、確認する。
そのとき、ふとノートの存在を思い出した。
(あれ? 今日の授業のノート……)
ページを開こうとして、あれ? と思う。
(ない……)
確か、昼休みに数学のノートを机の上に置いた気がする。もしかしたら、そのまま忘れてきたのかもしれない。
「あ、やば……」
授業で使ったノートを、教室に置き忘れていたことに気づく。今日やった範囲を見直そうと思っていたのに。
ため息をつきながら、菜月は踵を返した。
ちょっと面倒だけど、明日まで放っておくのは嫌だった。
校舎へ戻ると、廊下はすっかり静かになっていた。
いくつかの教室にはまだ明かりがついているものの、生徒の姿はほとんどない。いつもは当たり前のように通る廊下が、なんとなく違って見える。
菜月は、自分の教室へ向かって歩きながら、ふとあることを思い出す。
(悠斗、何の用事なんだろ)
さっきは軽く流したけれど、なんとなく気になってしまう。
何か大事なことなのか、それともただ適当にそう言っただけなのか。
(……まあ、別に私には関係ないか)
そう思い直して、軽く首を振る。
だけど、心の中のモヤモヤが完全に消えたわけじゃなかった。
教室の前に着くと、ドアに手をかける前にふと立ち止まる。
中に誰かいる気配がした。
開けようとしていた手が、一瞬だけ止まる。
(……誰か残ってる?)
放課後の教室はほとんど無人のはず。でも、確かに話し声がする。
耳を澄ませると、聞き覚えのある声が聞こえた。
(悠斗……?)
もう誰もいないと思っていたのに。
悠斗の声と、もう一人、女子の声が交互に響いている。
(……?)
特に聞くつもりはなかった。でも、自然と耳が傾く。
「悠斗くん、今彼女いないんでしょ?」
「んー、いないけど」
――心臓が、一瞬止まった気がした。
(……え?)
知っていたはずなのに。別に驚くようなことじゃないはずなのに。
それなのに、どうしてこんなに引っかかるんだろう。
「ね、だからさ、一回会ってみたら?」
女子の声は軽い調子で、まるで他愛もない雑談のように聞こえた。
けれど、その言葉が菜月の胸に刺さる。
(……一回、会ってみたら?)
「ほんと、めっちゃお願いされてるんだよね」
女子の弾んだ声が、さらに突き刺さる。
悠斗の返事は? なんて答えるの?
今すぐ逃げ出したいのに、身体が言うことをきかない。
「ねぇ、どうかな?」
「……」
一瞬の沈黙。
その間に、菜月はやっと、足を動かす決意をした。
これ以上聞いていたくない。
何も知らないままでいたい。
ドアに手をかけて、中へ入ろうとした――そのとき。
ガタン、と小さな音が鳴った。
(え……?)
自分が何かにぶつかったわけではない。
小さな音が響いた瞬間、悠斗と女子の会話が止まった。
(……やば)
菜月は息を詰める。
自分が何かにぶつかったわけじゃない。でも、立ち止まったままの足元から、わずかに響いた音がやけに大きく感じられた。
室内の静けさが、余計にその音を際立たせる。
聞かれた? いや、聞かれたっていうか、聞いてたのはこっちだけど――
このまま気づかないふりをして引き返すか。いや、それは不自然すぎる。
だったらもう、普通に入るしかない。
菜月は小さく息を吸い、意を決してドアを開けた。
「……ごめん、忘れ物」
できるだけ何でもないように、軽く笑ってみせる。
けれど、悠斗も女子も、どこか気まずそうにこちらを見たままだった。
「……相原さん?」
女子が、少し戸惑ったように名前を呼ぶ。
菜月はできるだけ自然に振る舞いながら、悠斗と女子を交互に見た。
「ノート忘れちゃって」
そう言いながら、悠斗の机の横をすり抜け、できるだけ二人の間には関わらないようにしながら、自分の席へ向かう。
机の中を探りながら、菜月は自分の心臓が早鐘を打つのを感じていた。
気にしない、気にしない。今はノートを取って、さっさと出ればいい。
そう思うのに、指先が少し震えているのがわかる。
「ねぇ、相原さんもさ、そう思わない?」
「え?」
突然話を振られ、菜月は手を止める。
女子は軽く微笑みながら言った。
「うちの友達が悠斗くんのこと好きみたいでさ。とりあえず、一回会ってみたらいいと思わない?」
頭が真っ白になった。
(なんで、私にそんなこと聞くの?)
思考がうまく回らない。
悠斗が、じっとこっちを見ているのが分かる。
菜月は、ごくりと小さく喉を鳴らした。
「……うん、そうだね」
それが、自分の口から出た言葉だった。
言った瞬間、胸の奥がチクリと痛んだ。
(なんで、そんなこと言っちゃうんだろう)
でも、もう言ってしまった言葉は取り消せない。
「でしょ?」
女子は満足そうに頷くと、「まぁ、前向きに考えといてよ!」と笑いながら言った。
それが冗談なのか本気なのか分からないまま、女子は「じゃ、またね!」と手を振り、教室を出て行った。
教室には、悠斗と菜月、二人だけが残る。
言葉を探そうとするけれど、何も出てこない。
悠斗が、何かを言いたげに口を開きかけた。
けれど、結局何も言わずに閉じる。
その仕草を見て、なぜか少しだけ胸が苦しくなった。
ほんの数時間前までは、こんな空気になるなんて思っていなかった。
ただ、いつも通り、部活終わりに「一緒に帰ろう」と声をかけただけなのに。
悠斗が誰と話して、誰と仲良くなっても関係ないはずなのに。
(……関係ないはずなのに)
胸の奥に広がる感情が、何なのか自分でも分からなかった。
無理に笑顔を作り、鞄を肩にかける。
「じゃあ、帰ろっか」
「おう」
悠斗の返事はいつも通りだった。
でも、さっきまでの会話の余韻が残っているせいか、その声が少しだけ遠く感じた。
教室を出ると、廊下はすっかり静かになっていた。
夕方の名残がわずかに窓から差し込んでいて、床に長い影を作っている。
菜月は無言のまま歩き出した。
悠斗も隣を歩いている。でも、さっきまでのやり取りのせいで、なんとなくぎこちない雰囲気になっていた。
普段なら、部活の話をしたり、くだらないことでふざけたりするのに。
今日に限って、二人とも無言のままだった。
――これ、絶対気まずい。
沈黙が重く感じる。
こんなの、ただ一緒に帰るだけなのに。
(……いつもと同じ、はずなのに)
さっきの女子の言葉が、まだ頭の中に残っている。
あの時、悠斗は何も言わなかった。
でも――もし、悠斗が「いいよ」って言ってたら?
そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
(……なんで、こんなこと考えてるんだろ)
自分でも分からない。
でも、考えないようにしようとしても、考えてしまう。
この沈黙を破りたいのに、何を話せばいいのか分からない。
そうしているうちに、悠斗のほうが先に口を開いた。
「さっきの話だけどさ」
菜月の足が、ほんの少し止まりかける。
(……え?)
でも、それを悟られないように、すぐに歩き出す。
「……うん」
声が少し硬くなった気がした。
悠斗は、特に気にする様子もなく続ける。
「聞いてた?」
菜月は、一瞬だけ言葉に詰まった。
「……ごめん、聞くつもりじゃなかったんだけど」
正直にそう答えた。
悠斗は「そっか」と短く返す。
そのあと、少しだけ間が空いた。
「菜月は、どう思う?」
「……え?」
思わず立ち止まりそうになった。
予想もしていなかった言葉だった。
「どうって……?」
菜月は、ぎゅっと手を握る。
それを聞かれるとは思わなかった。
自分で「そうだね」って言ったくせに、今さらどう答えればいいのか分からない。
「……わかんないけど」
視線を落としたまま、菜月は小さな声で言う。
「友達からなら、いいんじゃない?」
自分で言いながら、胸の奥がじわりと痛む。
悠斗は、それを聞いて少し考え込むような表情を見せた。
「そっか……」
それだけを言って、また歩き出す。
菜月は、その横顔をちらりと盗み見た。
(……そっか、って、なに)
その一言が、やけに寂しく聞こえた。
言葉の意味は分からない。でも、悠斗が何を考えているのか、気になる。
でも、聞けない。
だから、何も言えずに、ただ黙って歩くしかなかった。
しばらく、二人の間に沈黙が続いた。
家へ向かう道は、普段ならあっという間なのに、今日に限ってやけに長く感じる。
心なしか、悠斗の歩くペースもゆっくりになっている気がした。
何を話せばいいのか分からないまま、歩き続ける二人。
菜月は、ぎゅっと鞄の紐を握りしめた。
(……なんでこんな空気になってるんだろ)
いつもなら、適当に話題を振って笑い合えるのに。
今は、何を話してもぎこちなくなりそうで、言葉を飲み込んでしまう。
沈黙に耐えられなくなった菜月が、ふと口を開いた。
「悠斗は……どうするの?」
自然と出た言葉だった。
でも、悠斗はすぐには答えなかった。
「……さっきの話?」
「うん」
悠斗は少し考えるように空を見上げる。
「まぁ、なんとなく菜月が嫌そうだったから」
「……え?」
足が止まりかける。
悠斗は、何でもないような顔で続けた。
「さっき連絡しといた」
菜月の脳が、一瞬理解を拒否する。
何を言われたのか、すぐには分からなかった。
「……え、ちょっと待って」
「ん?」
「断ったってこと?」
「うん」
「なんで……?」
「なんでって……」
菜月は、不思議そうに悠斗を見た。
「そんな顔してたからさ」
心臓が、大きく跳ねた。
悠斗は、あっさりとそう言った。
何でもないことのように。
だからこそ、菜月は戸惑った。
(そんなの、私、何も言ってないのに)
それなのに、悠斗はどうして。
菜月は、言葉を失ったまま悠斗を見つめる。
でも、悠斗は「何?」と軽く笑って歩き出した。
それを見て、慌てて追いかける。
なんとなく、顔が熱くなっている気がした。
夕日が沈んでいく空の下。
菜月は、胸の奥が妙に落ち着かないまま、悠斗の横に並んだ。
悠斗の「そんな顔してたから」という言葉が、頭の中で何度も反響していた。
そんな顔って、どんな顔?
私は、どんな顔をしていたんだろう――。
それが分からなくて、菜月は悠斗の横顔をぼんやりと見つめたまま、ゆっくりと歩く。
でも、悠斗は特に気にする様子もなく、歩きながらスマホをいじっていた。
(……何もなかったみたいな顔してる)
さっき、悠斗は「連絡した」って言った。
つまり、女子に紹介されそうになった話を断ったということ。
その理由が――「そんな顔してるから」?
そんな理由で、悠斗は断ったの?
(……そんなわけないよね)
悠斗は、そういう適当なことを言う。
前にも、何かを誤魔化すときに、さらっと流すように適当なことを言ったことがあった。
(じゃあ、本当の理由は?)
それを聞きたくても、聞く勇気なんてない。
菜月はぎゅっと手を握る。
冷たい風が吹き抜ける。
だけど、頬が熱い。
二人は、ゆっくりと家の方向へ歩き続けた。
途中、いつもなら何気なく会話をするような場面でも、今日はどちらも口を開かなかった。
沈黙が、やけに長く感じる。
悠斗は特に何も考えていないのか、時々スマホを見ながら歩いている。
その姿が、余計に菜月の心をざわつかせた。
(……ほんとに、何も気にしてないの?)
悠斗にとっては、たいしたことじゃないのかもしれない。
友達が誰かを好きになって、それを紹介しようとして――別に、よくある話。
だけど、菜月にとっては、そんな簡単な話じゃなかった。
(私は……どうして、こんなに気になってるんだろう)
何度もそう思いながら、それでも答えが出ないまま、ただ歩き続ける。
交差点に差し掛かったとき、悠斗がふとスマホから顔を上げた。
「……お前、なんか今日静かじゃね?」
菜月は、一瞬ドキッとする。
「え?」
「なんか考えてんの?」
悠斗は特に何気ない顔をして聞いてくる。
だからこそ、菜月は言葉に詰まった。
「……別に」
咄嗟にそう答えたけれど、自分でも分かるくらい、ぎこちない返事だった。
悠斗は「そっか」と短く言い、また歩き出した。
でも、そのまま終わらせたくなくて、菜月は思わず口を開く。
「……悠斗は、さ」
悠斗が歩くスピードを緩める。
「ん?」
「……さっきの話、本当にそれでいいの?」
それを聞いた瞬間、悠斗は少し驚いたような顔をした。
「なんで?」
「いや……なんか、あっさりしすぎてるなって思って」
本当は、別のことを聞きたかった。
本当は、もっと違う言葉をぶつけたかった。
でも、それができなかったから、遠回しな聞き方になった。
悠斗は少し考えたあと、軽く肩をすくめる。
「んー、まぁ……今は別にいいかなーって」
「何それ……それだけ?」
悠斗は、ちらりと菜月のほうを見た。
そして、少しだけ笑う。
「それだけ」
また、悠斗の適当な感じ。
(……本当に、それだけ?)
菜月の心がざわつく。
でも、それ以上は聞けなかった。
家の近くまで来ると、悠斗がふと空を見上げた。
「もうすぐ春だな」
菜月も、つられるように見上げる。
「……そうだね」
少しだけ、心が落ち着く。
さっきまでのモヤモヤは、完全には消えていない。
だけど、悠斗が「それだけ」と言って、何事もなかったように笑ったこと。
それを思い出して、少しだけ胸が軽くなった気がした。
「じゃ、また明日な」
「うん」
菜月は、軽く手を振る。
悠斗は、何でもない顔で「じゃあな」と言って、そのまま歩いていった。
菜月は、その背中をしばらく見送る。
風が吹いて、前髪が少し乱れた。
それを整えながら、菜月はふっと小さく息をつく。
そして、自分の唇が、ほんのわずかに緩んでいることに気づいた。
(……ほんと、ずるい)
誰に言うでもなく、小さくつぶやいた。
さっきまでの沈んだ気持ちは、少しだけ、春の風に溶けていく気がした。
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