
昼休み。
春の匂いが混じった風が、校舎の外を吹き抜けていく。
菜月は悠斗と並んで、校舎裏のベンチに座っていた。
「でさ、圭吾が購買のパン取り合いで負けたらしくてさ」
「え、また?」
「なんか、目の前で取られたらしい。めっちゃ落ち込んでた」
「……ほんとに学ばないよね」
圭吾は昼休みになると、毎回購買に駆け込んで人気のパンを狙う。
でも、ほぼ毎回競争に負けているのは知っていた。
「まあ、今回は結構惜しかったらしいけどな」
「惜しかったってことは、結局負けたんでしょ?」
「そうそう」
悠斗が「ほんとそれ」と笑いながら、のんびりと空を見上げる。
春の陽射しがやわらかくて、気持ちいい。
「悠斗は何も買わなかったの?」
「俺はもうちょいしてから行く。どうせあいつら、前半で一気に買い占めるし」
「ああ……」
購買の争奪戦は、前半が特に激しい。
悠斗は、その勢いが落ち着いたタイミングで行くらしい。
「まあ、なくなってたらそれはそれでコンビニ寄ればいいしな」
「……結局そこ?」
「ま、それが一番楽だし」
悠斗は肩をすくめる。
(相変わらず適当)
そう思いながらも、その気楽な態度がどこか羨ましくもあった。
ふと、校庭のほうから 強めの風 が吹いてきた。
「わっ……」
風にあおられ、菜月の髪がふわっと舞い上がる。
前髪が視界を覆い、頬にさらりと髪がかかる。
(……思ったより強い風だったな)
そう思って、髪を手で整えようとした瞬間。
悠斗が 反射的に手を伸ばし、菜月の髪をそっと押さえた。
「お、おぉ……」
「……え?」
一瞬のことだった。
悠斗の手が、菜月の髪に軽く触れたまま止まる。
菜月は 驚いて顔を上げた。
悠斗は 特に気にしていない様子 で、髪を押さえたまま言う。
「いや、なんかすごかったから」
「……すごかった?」
「うん。急にばさーってなったし」
「……いや、それだけ?」
「それだけ」
悠斗は 本当に何でもないことのように 言う。
それが逆に 菜月の中に妙な感情を生む。
(いやいや、なんでそんな普通なの)
悠斗が、自然に手を離す。
風が落ち着き、菜月の髪も元通りになる。
でも、さっきの一瞬の出来事だけが頭に残っていた。
「……なに?」
「ん?」
「いや、なんか……」
菜月は 自分が何を言いたいのか分からなくなる。
ただ、さっきの悠斗の手の感触が やけにリアルに残っている。
たった数秒の出来事だったのに、なぜか心臓がざわつく。
(……私、意識しすぎ?)
そう思おうとしたけど、一度気になってしまうと なかなか消えてくれない。
悠斗は、いつも通りのテンションで「よし、そろそろ行くか」と立ち上がる。
「購買?」
「いや、ちょっと水買いに」
「あー……」
悠斗が 何も気にしていない からこそ、菜月だけが妙に意識してしまう。
(あーもう、なんでこんなことで)
風が落ち着いた空気の中、菜月は 自分の髪をそっと撫でる。
さっき、悠斗が触れた場所を。
(なんでこんなの気になるんだろ)
悠斗が「ほら、行くぞー」と手を振る。
「……うん」
菜月は 何でもないふりをして、悠斗の後ろを歩き出した。
でも、心の中では さっきの一瞬が、まだ消えないままだった。
悠斗と並んで歩きながら、菜月は さっきの出来事を引きずっていた。
(……普通に気にしすぎ?)
確かに、風で髪が舞ったところを押さえられたのは 少し驚いた。
でも、悠斗は 本当に何でもないことのようにしていた。
(それなのに、なんで私だけこんなに気にしてるの)
そんなことを考えていたら、悠斗が 何気なく 口を開いた。
「……髪、伸びた?」
「え?」
思わず、菜月は立ち止まりそうになった。
「なんか、前より長い気がする」
「……え、そう?」
「うん、たぶん」
悠斗は 軽く肩をすくめながら 言う。
(いやいや、なんでそんなこと気づくの)
「別に気にしたことなかったけど……」
「いや、さっき風でバサッとなったときに思った」
「あー……」
悠斗が髪を押さえてくれた、あの瞬間。
そのときに 気づいたってこと?
(なんか……変な感じ)
「……なんか、大人っぽい感じした」
「え?」
菜月は 思わず顔を上げる。
「いや、髪がなびいたときに、ふと思っただけ」
悠斗は 軽く肩をすくめながら、ぽつりと続けた。
「なんか、いいなーって……」
「えっ!?」
菜月の心臓が、一気に跳ねた。
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
でも、数秒後に 理解した瞬間、一気に顔が熱くなる。
「ちょっ……何言ってるの!」
慌てて顔を背けるけど、耳まで熱いのが自分でも分かる。
「えっ? ……あれ?」
悠斗も、自分の言葉に 遅れて気づいたらしい。
「……あれ? おれ、何言ってんだ?」
その瞬間、二人の間に 妙な沈黙が流れる。
悠斗は 照れたように頭をかく。
菜月は 恥ずかしさを隠すように前髪を直す。
(いやいや、ちょっと待って、何これ!?)
さっきまで普通に話してたのに、急に 変な空気 になった気がする。
ちょうどそのとき、また 風が吹いた。
さっきよりは弱いけれど、髪がふわりと揺れる。
(……今度は、悠斗の手は伸びてこなくて)
代わりに、菜月は 自分の手でそっと髪を押さえた。
「今度は大丈夫だったな」
悠斗が 少し笑う。
「……うん」
菜月は なんでもないふりをして 返した。
でも、風のせいではなく、 心の中がざわついていた。
校舎に戻ると、昼休みがそろそろ終わる頃だった。
「じゃ、教室戻るか」
「うん」
二人並んで歩く。
だけど、菜月は ふと、さっきの風の感触を思い出していた。
(……あの時、悠斗の手が伸びてこなくてよかったのかも)
だって、もしまた髪を押さえられたら、もっと意識してしまっていたから。
風が止んだ後も、菜月の心は 静まることを知らなかった。
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