『もう少しだけ』

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放課後、夕陽が窓ガラスを朱色に染めていた。

教室の空気は緩やかで、友達の話し声や椅子を引く音が混じり合っていた。

自分はまだ帰る準備をする気になれず、机に肘をつき、なんとなく外を眺めていた。

赤く染まった校庭の向こうで、部活の掛け声が響く。

そのとき、不意に声がした。

「……まだ帰らないの?」

声のほうを見ると、彼女だった。

普段はあまり話すことのない同級生。

けれど、席が近いせいか、なんとなく互いの存在を知っている、そんな距離感。

彼女の髪が夕陽を受けて、ほのかに光って見えた。

「もう少ししたら帰るよ」

そう答えると、彼女は少しだけ考えて——

「じゃあ、一緒に帰る?」そう言った。

一瞬、言葉が出なかった。

別に特別な意味はないのかもしれない。

たまたま帰る方向が同じなだけ。

けれど、こんなふうに彼女から誘われるのは初めてだった。

「……うん、いいよ」

そう答えると、彼女は微笑んで、先に鞄を肩にかけた。

その横顔は、いつもより少しだけ柔らかく見えた。
 
昇降口を抜けると、夕暮れの空気が肌に触れた。

まだ少しだけ暑さが残る季節だったけれど、夕方になると風が心地よかった。

二人で並んで歩く。

特に話すこともなく、互いの足音だけが響く。

こうして並んで歩くのは、きっと初めてだった。

それが妙にくすぐったくて、何か話さなきゃと思うのに、言葉が見つからない。

彼女はどんなことを考えているんだろう。

こうして誰かと帰ることなんて、彼女にとっては特別なことじゃないのかもしれない。

でも、自分にとっては——

「……いつも、こうやってのんびりしてるの?」

彼女がふいに口を開いた。

「え?」

「帰るの遅いよね。前にも、夕方まで残ってたの見たことある」

「あぁ……なんとなく、帰るタイミング逃すことが多くて」

「ふーん」

彼女はそれ以上何も言わずに歩く。

でも、どこか納得したような表情だった。

風が吹いた。

前を歩いていた小学生たちの自転車のベルの音が遠ざかっていく。

そのまま、二人の間にまた沈黙が落ちる。

だけど——嫌な感じはしなかった。

交差点の手前で、信号が赤に変わる。

二人は自然と足を止め、並んで立つ。

「……こうやって歩くの、なんか新鮮」

ぽつりと、彼女が言った。

「……そう?」

「うん。こういうの、あんまりないから」

「友達とは帰らないの?」

「帰るよ。でも、こうやって二人っていうのは、あんまりないかも」
 
信号が青に変わる。

歩き出すタイミングが少しずれて、自分が少し前に出る形になった。

そうしてまた、並ぶ。

校門を出てから、すれ違う人の数が増えてきた。

部活帰りの生徒や、自転車で駆け抜ける人たち。

その中で、自分たちは変わらず並んで歩いていた。

何を話せばいいのかわからなかった。

でも、不思議と気まずさはなかった。

むしろ、この静かさが心地よく思えた。

この時間が、もう少し続けばいいのに——

そんなことを、ふと考えた。

住宅街に入ると、彼女が「あ、ここで曲がる」と言った。

「あぁ」

「今日は、なんかありがと」

「え?」

「たぶん、一人だったらすぐ帰ってたから」
 
彼女はそう言って、小さく笑った。

「……うん」

何か、言葉を返したかったけれど、いい返事が思い浮かばなかった。

彼女が軽く手を上げて、家の方へ歩き出す。

その背中を見送ってから、もう一度歩き出した。

心なしか、夕暮れの空がいつもより広く感じた。
 
住宅街を抜けて、ひとりになった帰り道。

彼女と並んで歩いていた時間を思い出す。

特別な会話をしたわけじゃない。

でも、あの沈黙が心地よかったことだけは、はっきり覚えている。

ふと、ポケットに手を入れると、指先に触れたものがあった。

それを取り出してみる。

——飴玉。

彼女が、別れ際に何気なく差し出したもの。

「これ、いる?」と軽く聞かれて、なんとなく受け取った。

そのときは特に気にしていなかったけれど、今になって妙に気になった。

彼女は、あのとき何を考えていたんだろう。

なぜ、わざわざ自分にこれをくれたんだろう。

考えたところで答えは出ない。

でも、なんとなく——

また一緒に帰れるといいな。

そんなことを思った。
 

次の日。

いつもと同じ朝。

いつもと同じ教室。

けれど、なんとなく、彼女の存在が気になった。

意識していないつもりだった。

でも、視線が自然と彼女のほうへ向かってしまう。

気づかれたら恥ずかしいから、さりげなく。

それとなく。

「……」

彼女はいつも通り友達と話していた。

昨日と変わらない日常。

自分だけが、昨日を引きずっている気がした。

窓の外を見る。

晴れているのに、風は少し冷たい。

秋が近づいているんだろう。

昨日のことを、彼女は覚えているんだろうか。

それとも、何気ないこととして、もう忘れてしまったんだろうか。

そんなことを考えていると、不意に——

「おはよう」

彼女の声が聞こえた。

びくりと肩が跳ねる。

「……お、おはよう」

予想外のことに、ぎこちなくなった声。

彼女は特に気にすることもなく、にこりと微笑んで、自分の席へ戻った。

それだけのこと。

たったそれだけのことなのに、なぜか胸が騒いだ。

放課後。

昨日と同じ時間、同じ場所。

ふと、昇降口で靴を履き替えていると、彼女の姿が目に入った。

——昨日と同じように、一人だった。

「……」

少しだけ、迷う。

でも、自然と足が動いていた。

「今日も、一緒に帰る?」

気づけば、そう声をかけていた。

彼女は驚いたようにこちらを見て——

「……うん」

昨日と同じように、微笑んだ。

それだけで、今日の帰り道が少しだけ特別なものに思えた。

昨日より、ほんの少しだけ距離が縮まった気がした。

そして——

昨日より、もう少しだけ長く、この時間が続けばいいと思った。


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