
電車の窓に映る、自分の顔をぼんやりと見つめていた。
夜の街を流れる光が、頬をかすめていく。
── あの頃と、何も変わらない。
いや、本当はすべて変わってしまったのかもしれない。
景色は同じなのに、ここにいる自分だけが違う気がする。
久しぶりの地元。
どこか懐かしくて、どこか落ち着かない。
降り立ったホームには、夜の冷たい風が吹いていた。
── ここで、いつも遅れてくる結衣をホームで待っていた。
寒い夜も、暑い夕暮れも、駅の片隅でなんでもない話をしながら、くだらないことで笑い合った。
あれは、もう何年前のことだろう。
「……」
ポケットの中で、スマホを握りしめる。
連絡するつもりはなかった。
ただ、気になってしまう。
── 彼女は、今どこにいるんだろう。
そう思ったところで、どうしようもないことも分かっているのに。
夜の街を歩く。
信号の向こう、商店街の明かり。
あの頃と同じ場所を歩いているのに、景色が少しぼやけて見える。
「拓実……久しぶり」
不意に、聞き覚えのある声がした。
振り向いた先に、彼女がいた。
── 夢でも見てるのかと思った。
変わらない部分も、変わった部分もあった。
髪は少し伸びて、大人びた表情をしている。
だけど、どこか懐かしい匂いがした。
「帰ってきてたんだ」
「……まあね」
それ以上、何を言えばいいのかわからなくなる。
数年ぶりの再会。
ずっと気になっていたのに、目の前にすると何も言葉が出てこない。
「元気だった?」
「……うん、まあね」
沈黙。
お互いに、言葉を探しているのが分かる。
「東京は、どう?」
「……普通。思ってたより、全然うまくいってない」
素直に、そう言えた。
彼女は少し驚いたように目を見開いたけれど、すぐに微笑んだ。
「そうなんだ」
他愛のない会話。
だけど、心の奥底で、何かが揺れ動いているのを感じる。
「……あのさ」
言おうとした言葉が、喉の奥でつかえて出てこない。
── 「ごめん」
その言葉すら、今さら言うべきなのかわからなかった。
「変わらないね」
彼女が夜空を見上げながら、ぽつりと呟いた。
その横顔は、どこか寂しげで、それでもどこか穏やかだった。
夜風が吹く。
「昔さ、願い事をすれば叶うって信じてたよな」
ふと、言葉がこぼれる。
「あの頃?」
彼女がゆっくりとこちらを振り向く。
「覚えてるよ。二人で夜の公園で寝転がってさ、流れ星を待ってたこと」
「ああ。結局、流れ星なんて見えなかったけど」
「でも、願ったよね?」
「……願った」
忘れるはずがなかった。
あの夜、彼女は目を閉じて、真剣な顔で願い事をしていた。
「ねえ、何を願ったの?」
あの時、そう聞いた。
彼女は照れくさそうに笑いながら、言った。
「秘密」
その言葉の意味を、今でも知ることはできないまま。
「……願い、叶った?」
静かな声で、彼女に聞いた。
彼女は一瞬だけ目を伏せ、それから、静かに首を振った。
「ううん」
── そうか。
「でもね」
彼女は、ふっと微笑んだ。
「願いって、叶わないから意味がないわけじゃないんだって」
「……どういうこと?」
「昔、願ったことがあったから、今の私がいるって思うんだ」
彼女は、コートのポケットに手を入れながら、夜空を見つめる。
「願いは叶わなかった。でも、願ったことは、私の中にちゃんと残ってる」
彼女の言葉は、痛いほど優しかった。
まるで、すべてを過去として受け入れたかのような。
── だけど、俺は。
「……俺は、あの頃のままだよ」
口に出して、驚いた。
ずっと忘れようとしていたのに、心のどこかで、彼女と過ごした時間を手放せずにいたことを、自分自身が一番よく分かっていた。
「……うん」
彼女は、それ以上何も言わなかった。
ただ、少しだけ、悲しそうに笑った。
***
駅までの道を、ゆっくりと歩いた。
何を話せばいいのか分からないまま、並んで歩く。
それは、あの頃と同じようで、決定的に違っていた。
「また……会えるかな?」
そう言いかけたとき、彼女のスマホが鳴った。
画面を見た彼女の表情が、一瞬変わる。
「……ごめん、そろそろ行かなきゃ」
「あ、うん」
彼女は、微笑んで。
それが「優しい笑顔」なのか、「距離を置くための笑顔」なのか、分からなかった。
「じゃあね」
手を振って、歩き出す彼女の後ろ姿を見つめる。
「……」
言葉が出なかった。
何もできなかった。
どんなに時間が経っても、あの頃の続きを取り戻すことなんてできない。
── それでも、願ってしまう。
もう一度、彼女と並んで歩ける日が来るなら、と。
夜空に、瞬く星が見える。
あの頃、二人で見上げた星。
「願いをかけたら、叶うかな」
かつて、そんなふうに笑いながら話した。
今、もう一度願ってみてもいいだろうか。
***
次の日、街をぶらついていると、偶然、昔の友人と出くわした。
「拓実?おお、マジか! 久しぶりじゃん!」
懐かしい顔ぶれ。
地元に帰ってきたとはいえ、誰かと会うつもりはなかった。
「てかさ、お前、結衣に会った?」
突然、名前を出されて、一瞬息が詰まる。
「……会ったよ」
「そっか。あいつ、今どうだった?」
結衣の微笑みが脳裏に浮かぶ。
「……元気そうだったよ」
そう答えながら、あの笑顔が「本当に元気な笑顔だったのか」考えてしまう。
変わらない部分と、変わった部分。
昨日の彼女の笑顔は、どっちだったんだろう。
「……元気そうだったよ」
そう答えると、大樹は少しだけ表情を曇らせた。
「そっか……そっか」
その言い方が、少し引っかかった。
まるで、大樹は何かを知っているかのような口ぶりだった。
「……なんかあったのか?」
思わず聞き返すと、大樹は少し間をおいて、首を振った。
「いや、別に。ただ……お前がそう言うんなら、そうなんだろうな」
それだけ言って、大樹は苦笑する。
その笑顔が、どこか釈然としなかった。
夜の公園。
彼女と最後に話したのは、ここだった。
── いつか迎えに来るから。
その言葉を、信じてくれていたんだろうか。
それとも、最初から信じてなんていなかったんだろうか。
ベンチに座り、ポケットからスマホを取り出す。
彼女の名前を探す。
指が止まる。
── 何を言えばいい?
今さら連絡して、何になる?
だけど、昨日の彼女の背中が、どうしても忘れられなかった。
迷っていると、ふいに通知が鳴った。
結衣からのメッセージだった。
「ねえ、今、時間ある?」
── 心臓が跳ねた。
「あるよ」
そう返信すると、すぐに返事が来た。
「ちょっと、話せる?」
***
待ち合わせたのは、駅前の小さなカフェ。
結衣は、先に来ていた。
「ごめん、急に」
「いや、大丈夫」
コーヒーの香りが漂う店内。
結衣は、カップを両手で包み込むように持っていた。
「……昨日、会ったとき、言えなかったことがあるんだ」
静かに口を開く。
「ずっとね、何か言いたかったんだけど、うまく言葉にできなくて」
その声には、どこか躊躇いがあった。
「東京に行ったとき、寂しかった?」
「…うん」
「……そっか」
結衣は、少しだけ目を伏せた。
「ねえ、覚えてる? 昔、星を見ながら言ってたこと」
── 「願いをかけたら、叶うかな」
胸の奥が、ざわついた。
「私、あのとき、本当に願ったんだよ」
「……」
「でもね」
結衣は、そっと笑った。
「願いだけじゃ、ダメだった」
それは、何を意味しているんだろう。
「……今、好きな人がいるの?」
自分でも驚くほど、掠れた声で聞いた。
結衣は、少しだけ目を見開いて、
それから、小さく頷いた。
「うん」
喉の奥が、ひどく苦しくなった。
「そっか」
それしか、言えなかった。
***
結衣の「うん」という言葉が、胸の奥に鈍く響いた。
── もう、終わってるんだな。
分かっていたはずなのに、実際に聞くと、予想以上に苦しかった。
結衣はカップを両手で包んだまま、少しだけ微笑んでいた。
カップの中で揺れるコーヒーの表面を見つめる。
次に何を言えばいいのか分からなかった。
いや、本当は、もう何も言えなかったのかもしれない。
「ねえ」
結衣が小さく息を吐いて、口を開いた。
「今も、星に願い事、する?」
思いがけない言葉に、顔を上げた。
結衣は、窓の外に目を向けていた。
「昔さ、一緒に星を見て、『願ったら叶うかな』って話したよね」
「……覚えてるよ」
忘れるはずがなかった。
あの夜、二人で並んで空を見上げたこと。
小さな光を見つけて、願い事を口にしたこと。
「この先も、ずっと一緒にいられますように」
そう願った。
「私はね、今でも星を見上げるよ」
結衣の声は、穏やかだった。
それが、どこか切なく響く。
「願いは……叶った?」
意図せず、口にしてしまった。
結衣は、一瞬だけ目を伏せた。
そして、静かに首を振った。
「ううん」
── そうか。
「でもね」
結衣は、ふっと微笑んだ。
「願いって、叶わないから意味がないわけじゃないんだって」
「……どういうこと?」
「昔、願ったことがあったから、今の私がいるって思うんだ」
カップをそっとテーブルに置き、真っ直ぐにこちらを見た。
「拓実と過ごした日々があったから、今の私があるんだと思う」
その言葉は、痛いほど優しかった。
拒絶でもなく、後悔でもなく、ただ、結衣が見つけた答え。
「ありがとう」
最後の一言が、決定的だった。
ああ、本当に、終わったんだな。
結衣は、もう前を向いて歩いている。
それなのに、俺は──。
***
夜の街を歩く。
足は自然と、公園へ向かっていた。
結衣と最後に話した場所。
あの日、俺は何を言った?
── 「いつか迎えに来るから」
結局、迎えに来ることはできなかった。
それなのに、こんなにも結衣のことばかり考えている。
空を見上げる。
星が、静かに瞬いていた。
結衣が言ったように、俺も昔、願い事をしたことを思い出す。
「この先も、ずっと一緒にいられますように」
でも、もうその願いを叶えることはできない。
俺は、何を願えばいいんだろう。
スマホを取り出し、結衣とのメッセージを開く。
最後に送られてきた「ありがとう」の文字が、画面に並んでいた。
俺は、しばらく指を止めたまま、ゆっくりと打ち込んだ。
「元気でな」
それだけ。
送信ボタンを押して、ポケットにしまう。
もう、振り返らない。
俺も、前に進まなきゃいけないんだ。
結衣の言ったことを、今なら少し分かる気がした。
願いは、叶わないから意味がないわけじゃない。
── 俺はもう一度、夜空を見上げた。
少し滲んだ星が、静かな夜空の中で輝いていた。
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