
朝日がカーテンの隙間から差し込む。
目を開けると、見慣れた天井があった。
スマホを手に取ると、時刻は午前6時50分。
いつもと同じ朝。
だけど、何かが違う気がする。
息を吸い込んでも、どこか胸が詰まるような感覚があった。
気のせいだろうか。
ベッドから降り、鏡の前に立つ。
寝癖を直そうと髪を整えながら、ふと視線が止まった。
右手の薬指。
そこに、薄く指輪の跡のようなものが残っていた。
……なんだろう。
私は、指輪なんてつけていただろうか?
ルールの厳しい学校だし、アクセサリーはほとんど持っていない。
それなのに、この痕跡は……。
妙な違和感を抱えたまま制服に袖を通し、家を出る。
自転車に乗り、朝の風を感じる。
通学路はいつもと同じ。
同じ制服を着た生徒たちが歩き、時折笑い声が聞こえてくる。
だけど、何かが足りない。
この景色に、本当はもう一つ何かがあった気がする。
「おはよう!」
校門をくぐると、美幸が手を振って駆け寄ってきた。
「おはよう」
私は笑顔を返す。
「また寝不足? なんかぼーっとしてない?」
「ううん、そんなことないよ」
美幸と話しているうちに、違和感は薄れていく。
きっと気のせい。
考えすぎなだけ。
そう思いながら、教室へ向かった。
午前中の授業は、ぼんやりとしたまま過ぎていく。
ノートを開き、ペンを走らせる。
けれど、文字がどこか遠く感じた。
私は今、何を考えているんだろう。
何を、忘れているんだろう。
昼休み。
美幸と屋上でお弁当を広げる。
いつも通り、他愛もない話をして、笑い合う。
「佳奈ってさ、最近何か考えごとしてる?」
「え?」
「なんかさ、時々ぼーっとしてるし、何かを思い出そうとしてる感じがする」
……そうだろうか。
私は、何かを思い出そうとしている?
自分ではよくわからなかった。
「そんなことないと思うけど……」
曖昧に笑って誤魔化す。
だけど、美幸の言葉が胸の奥にひっかかったまま離れなかった。
放課後になり、美幸と一緒に駅へ向かう。
「今日はまっすぐ帰る?」
「うん、なんか少し疲れちゃって」
美幸は少しだけ心配そうな顔をしたけれど、「じゃあ、また明日ね」と手を振った。
電車に乗り込み、空いている席に座る。
扉が閉まり、電車が静かに動き出した。
私はスマホを開き、無意識にアルバムをスクロールする。
いつ撮ったのかもわからない、日常の風景。
友達と出かけた写真。
楽しい思い出が並んでいるはずなのに――なぜか、どれも少し物足りない気がする。
「……何かが、足りない」
小さく呟いた瞬間、電車が揺れた。
隣の人と肩が触れる。
「あっ、すいません」
そう言いながら視線を上げた。
相手も、こちらを見ていた。
「こちらこそ、すいません」
落ち着いた声。
そして、左手の薬指に光る指輪。
――あれ?
その瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
なぜだろう。
彼の顔は知らないはずなのに、見た瞬間、涙が出そうになった。
何かが引っかかる。
でも、それが何なのか分からない。
電車が次の駅に着く。
彼はゆっくりと立ち上がり、降りていった。
私は、ただそれを見送るしかできなかった。
――待って。
そんな気がした。
でも、なぜ?
「……誰なの?」
私の胸の奥にある違和感は、ますます大きくなっていった。
帰りの電車を降り、家までの道を歩く。
夕焼けに染まる街並みは、どこかぼんやりとしていた。
いつも通る道なのに、妙に遠く感じる。
あの電車の中で出会った人――。
彼の顔を思い出そうとする。
でも、うまく思い出せない。
確かに見たはずなのに、どんどん記憶がぼやけていく。
まるで、夢の中の出来事みたいに。
でも、あの瞬間、胸が痛んだのは確かだった。
なぜだろう。
私は何を忘れているの?
家に帰ると、すぐに自分の部屋に向かう。
スマホのアルバムを開く。
何か、ヒントがあるかもしれない。
けれど、どれだけ見返しても、そこに彼の姿はなかった。
見落としているだけだろうか。
……それとも、本当に最初からいなかった?
思考が絡まりそうになり、私はスマホを閉じた。
疲れているのかもしれない。
ベッドに横になると、いつの間にか意識が遠のいていった。
――夢を見ていた。
どこまでも続く白い空間。
音がしない。
誰もいない。
私ひとりだけ。
でも、どこか懐かしい気がした。
なぜだろう。
ここには、前にも来たことがある気がする。
どれだけ歩いても、何もない。
それなのに、私は何かを探している。
……何を?
わからない。
でも、探さなきゃいけない気がする。
足を止めると、背後から微かに声が聞こえた気がした。
振り向く。
けれど、そこには誰もいない。
気のせい?
違う。
確かに、誰かがいる気がする。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
「……誰?」
口にした瞬間、視界が揺らいだ。
何かが近づいてくるような気がする。
でも、はっきりとは見えない。
思い出さなきゃ。
でも誰を――。
そう考えた瞬間、夢の世界が崩れ、意識が引き戻されるように目が覚めた。
暗い天井が見えた。
部屋の中は静かだった。
夢の中で、私は何を探していたのだろう。
覚えているのは、ただ「何かを探していた」ことだけ。
思い出せそうなのに、思い出せない。
今まで感じていた違和感が、ますます大きくなっていく。
ずっと、何かが欠けていた。
それが何かは、いまだに思い出せないまま――。
目を閉じると、あの電車で出会った人の姿がぼんやりと浮かんできた。
もう一度会えたら、何かが変わるのだろうか。
それとも――。
私は、何を求めているの?
答えは、まだ霧の向こう側にあった。
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋を淡く照らしていた。
目を開けると、心臓がわずかに跳ねる。
さっきまで夢を見ていた気がする。
でも、目覚めた途端、その内容は霧のように消えていった。
覚えているのは、ただ「何かを探していた」ということだけ。
ベッドの上に起き上がり、右手をそっと見つめる。
薄く残る指輪の跡。
昨日も気になったけれど、今朝はそれが妙に重く感じた。
この違和感の正体は何だろう。
ため息をつき、スマホを手に取る。
時刻は午前6時50分。
通知の数はいつもと変わらない。
誰かからのメッセージを待っていたような気がするのに、そんな相手はいなかった。
学校へ行けば、何か変わるだろうか。
そんなことを考えながら、支度をして家を出る。
自転車をこぎながら、昨日のことを思い出す。
電車の中で出会った、あの人。
顔はぼんやりとしているのに、左手の指輪のことだけが妙にはっきりと記憶に残っていた。
どうしてだろう。
彼を見た瞬間、胸が締めつけられた。
ただの偶然? それとも……。
答えは見つからないまま、学校に着いた。
「おはよう!」
美幸が笑顔で手を振る。
「おはよう」
私はいつも通りに返事をする。
「ねえ、放課後どっか寄らない? 昨日も佳奈、なんか元気なかったし」
「……うん」
いつもなら「そんなことないよ」と言っていたかもしれない。
でも、今日はなんとなく否定する気になれなかった。
美幸の気遣いが嬉しかったのかもしれない。
授業中、窓の外を眺める。
空はどこまでも青く、風が雲をゆっくりと流していく。
この空を、誰かと一緒に見た気がする。
でも、その「誰か」が思い出せない。
昼休みになり、美幸と屋上に向かう。
お弁当を広げ、他愛もない話をしながら笑う。
それなのに、胸の奥の違和感は消えなかった。
「ねえ佳奈って、今好きな人いる?」
突然の質問に、箸を持つ手が止まる。
「え?」
「最近、なんかそういう雰囲気あるなーって思って」
美幸が軽い調子で言う。
「……そんなことないよ」
私は笑って誤魔化した。
だけど、本当にそうだろうか。
誰かを好きになったことがあった気がする。
でも、その相手が誰だったのか、思い出せない。
そんなことがあるだろうか。
記憶が抜け落ちるなんて。
……でも、それに気づいてしまったら、戻れなくなる気がした。
私は何を、忘れているの?
放課後、美幸とカフェに寄る。
飲み物を手にしながら、窓の外をぼんやりと眺める。
そのとき、心臓が跳ねた。
人混みの中に、あの電車で出会った人がいた。
いや、それだけじゃない。
私は知っている。
彼を、私は――。
「……佳奈?」
美幸の声にハッとする。
「え?」
「どうしたの?」
「……なんでもない」
カフェを出て、帰りの電車に乗る。
座席に座り、スマホを開く。
SNSのタイムラインをスクロールする。
友達の写真が流れていく。
見慣れたはずの風景なのに、どこか違和感がある。
……誰かが、いたはずなのに。
私は、もう一度アルバムを開いた。
楽しい思い出が並んでいる。
だけど、その中に欠けたピースがある気がする。
電車が揺れた。
肩が誰かに当たる。
「あっ、すいません」
顔を上げる。
――彼だった。
昨日、電車で見たあの人。
「こちらこそ、すいません」
彼は、少し寂しげに微笑んだ。
胸が締めつけられる。
私は、彼を知っている。
でも、思い出せない。
電車が駅に着く。
彼は私より先に降りていく。
私は立ち上がることができなかった。
ただ、遠ざかる彼の姿を見送るしかなかった。
次の瞬間、涙がこぼれた。
「……なんで……」
自分でも分からない。
だけど、私は彼を知っている気がする。
それなのに、思い出せない。
どうして?
私は、何を忘れてしまったの?
家に帰ると、靴を脱ぎ、鞄を置き、真っ直ぐ自分の部屋へ向かった。
電車の中で彼とすれ違った瞬間の胸の痛みが、まだ残っている。
理由なんて分からない。
でも、あのときの寂しそうな微笑みが、頭から離れなかった。
私は、彼を知っている。それだけは確かだった。
なのに、名前が――思い出せない。
スマホのアルバムを開く。
何度も見返したはずの写真たち。
友達との写真、学校の風景、何気ない日常の瞬間。
だけど、どの写真も、どこか不自然に感じた。
この隙間、この空白。
本当は、ここに誰かがいたんじゃないか。
「……いないはずの誰かを探してるなんて、おかしいよね」
独り言を呟き、スマホを閉じる。
考えすぎたせいか、頭が霞んでいくようだった。
今日は早く寝よう。
そう思い、ベッドに横になった。
目を閉じると、すぐに眠気が襲ってきた。
――また、夢を見た。
白い世界が広がっている。
音も、風もない。
私は、どこかを目指して歩いていた。
どこへ向かっているのか分からない。
でも、止まることはできなかった。
何かを探している気がする。
だけど、何を探しているのかが分からない。
ただ、胸が痛い。
何かが足りない。
欠けているものがある。
「……誰か」
声を出してみる。
だけど、応えはなかった。
そのとき、ふと、遠くに人影が見えた。
私は、夢中で駆け出していた。
誰なの?
待って。
近づくほどに、胸が苦しくなる。
喉が震える。
涙が出そうになる。
どうして?
私は、何を思い出しかけているの?
あと少しで、その人に手が届く。
そう思った瞬間、足が止まる。
喉の奥から、自然とこぼれ落ちる。
「……裕人」
その名前を口にした瞬間、すべてが弾けるように広がった。
光が溢れる。
目の前の人が、ゆっくりと振り向いた。
優しく微笑んでいる。
「やっと、気づいてくれた」
その声を聞いた瞬間、何かが一気に溢れ出した。
私は――。
――目を覚ました。
眩しい光が、カーテンの隙間から差し込んでいる。
病室の天井が広がっていた。
息を吸い込む。
ゆっくりと目を向けると、誰かが私の手を握っていた。
「……裕人?」
震える声で、名前を呼ぶ。
彼が、目を見開いた。
「佳奈……」
涙が溢れた。
私は、帰ってきたんだ。
裕人がいる、この世界に。
裕人が目を見開いたまま、私の手を強く握る。
「お前……」
声が震えていた。
裕人の目には、涙が溜まっていた。
「……良かった……ほんとに……」
言葉にならない声がこぼれる。
私は――帰ってきたんだ。
裕人がいる、この世界に。
息を吸い込むと、胸の奥がじんわりと温かくなる。
夢の中で、私はずっと何かを探していた。
何かが足りない、何かが欠けている。
それが、裕人だった。
ずっと、忘れていた。
でも、忘れたかったわけじゃない。
思い出せなかっただけ。
だけど、やっと思い出した。
「……待たせちゃったね」
涙が頬を伝う。
裕人は首を振る。
「いいんだ……!」
唇を噛みしめ、涙を堪えながら、それでも笑った。
「戻ってきてくれたなら、それだけで……!」
私の手を握る裕人の指が、少しだけ震えていた。
彼は、ずっと私を待っていてくれたんだ。
夢の中で私は、裕人のいない世界をさまよっていた。
でも、現実では彼が――私の手を離さずに待っていてくれた。
私が目を覚ますのを、信じて。
「もう、どこにも行かないよ」
私はそっと、裕人の手を握り返す。
裕人は、一瞬驚いたように私を見つめた。
だけど、すぐに微笑む。
「絶対だぞ」
その言葉が、あまりに優しくて。
また涙が溢れそうになる。
もう二度と、忘れたりしない。
彼がいる世界で、私は生きていく。
もう、どこにも行かない。
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