
授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
ガタガタと椅子を引く音、ざわめき、教室に広がる日常の音。
机に肘をつきながら、なんとなく黒板を見つめる。
不意に名前を呼ばれ、顔を上げた。
先生が、手のひらに乗せた小さな消しゴムをかざしている。
「落とし物だ。名前が書いてあるぞ」
「ほら」と消しゴムを渡されるが、
(え?)
一瞬、理解が追いつかなかった。
けれど、教室のざわめきがピタリと止まり、数秒後には「おおー!」と興味をそそられたような反応が返ってくる。
「お前、名前書く派なの?」
「いやいや、違う。俺のじゃない」
慌てて否定した。
でも、確かにそこには自分の名前が書かれている。
手のひらサイズの、どこにでもある普通の消しゴム。
でも、文字の筆跡は見覚えのないものだった。
「じゃあ誰のだ?」
先生がもう一度教室を見渡す。
その瞬間、視線の端に彼女の姿が映った。
端の席。
普段あまり話すことのない、でも、いつもなんとなく目で追ってしまうあの子。
彼女が、一瞬だけ息をのむような仕草をした。
そして、小さく俯く。
「……」
偶然かもしれない。
でも、もしかして——
「とりあえず、持っておけ。持ち主がいたら返してやればいい」
先生はそう言って、消しゴムをポンと机に置いた。
周りから「お前のだろー!」「モテ期か?」なんて茶化されながら、無言でそれを手に取る。
小さな、何の変哲もない消しゴム。
だけど、それが今、妙に重たく感じられた。
放課後。
いつもより少し遅く教室を出た。
荷物をまとめながら、ポケットに入ったままの消しゴムを何度か指でなぞる。
——どうしよう。
返すべきなのか、それとも、このまま持っているべきなのか。
(……いや、何を考えてるんだ)
結局、自分の名前が書かれていた理由もわからないままだ。
それだけで何かを期待するのは、単なる勘違いかもしれない。
それでも——
「……あの」
廊下を歩いていると、不意に背後から小さな声がした。
振り向くと、そこに彼女がいた。
「……さっきの消しゴム、私の、なの」
その声は、どこか申し訳なさそうで、それでいて少しだけ緊張しているようにも聞こえた。
「え?」
思わず、聞き返してしまう。
「さっきの、落としちゃって……」
「……」
言葉の続きを待つ。
けれど、彼女は何かを言いかけて、それ以上は口を開かなかった。
ただ、じっとこちらを見ている。
「……そっか」
ポケットの中の消しゴムを取り出す。
「ほら」
そっと手のひらに乗せると、彼女は少し戸惑ったように、それを受け取った。
「……ありがとう」
消しゴムを持つ指先が、かすかに震えていた。
「……でもさ」
自分でも、なぜその言葉を口にしたのかはわからなかった。
「なんで俺の名前、書いてたの?」
彼女の表情が、一瞬ぴたりと固まる。
そして——
「それは……」
何かを言おうとした、けれど。
「……なんでもない」
小さく息を吐いて、ふっと笑った。
「気にしないで」
そう言って、彼女は軽く頭を下げて、足早に去っていった。
その後ろ姿を、ぼんやりと見送った。
結局、理由は聞けなかった。
でも、それでもいい気がした。
名前が書かれた理由は——
彼女が去ったあと、しばらくの間、その場を動けなかった。
消しゴムをそっと握りしめた彼女の指先。
「気にしないで」と笑ったあの表情。
あれが本当に、ただの「なんでもない」ことだったのだろうか。
——気になる。
でも、それ以上に、これ以上何かを聞いたらいけないような気もした。
彼女が言葉を選んで、そう言ったのだから。
……これで終わり?
そう思おうとしたのに、なぜか心の奥に、小さな引っかかりが残る。
次の日。
教室に入ると、何となく彼女の方を見てしまった。
席は少し離れている。
普段なら気にすることもないのに、今日は無意識に視線が向く。
彼女は、いつもと変わらない様子だった。
友達と話しながら笑い、時々頷いたり、窓の外を眺めたり。
それは、昨日までと同じ彼女だった。
でも、たった一つだけ違ったのは——
机の上に、昨日の消しゴムが置かれていたこと。
さりげなく視線を戻す。
気にしすぎるのも変だ。
でも、どうしてだろう。
消しゴムの向きが、妙に気になった。
普通、机に置くなら、何気なく転がしておくだろう。
けれど、その消しゴムはまっすぐに置かれていた。
まるで、それを持ち主に見てもらうことを期待しているかのように。
その白い表面に、昨日と同じように——
自分の名前が書かれている。
昼休み。
どうしようもなく気になって、結局彼女の近くを通ってみた。
すると、ふとした瞬間、彼女と目が合った。
彼女は一瞬、驚いたように目を瞬かせ——
それから、ゆっくりと笑った。
それは、昨日よりもほんの少しだけ、柔らかい笑顔だった。
「……ねぇ」
彼女が声をかけてきたのは、その帰り道だった。
「昨日のことだけど……」
立ち止まる。
彼女も足を止めて、少し考えるように空を見上げた。
「やっぱり、言っておこうかな」
そう言って、ポケットから昨日の消しゴムを取り出した。
「これね、別に落としたんじゃなくて……本当は、大事に持ってたの」
消しゴムをそっと両手で包み込む。
「でも、名前、見られちゃったよね」
「……あぁ」
「だから、もう隠すのは無理かなって思って」
彼女は、少しだけ困ったように笑った。
「恋のおまじない、知ってる?」
「……ん?」
「好きな人の名前を消しゴムに書いて、それを最後まで使い切ると……願いが叶うってやつ」
「……あぁ」
聞いたことはあった。
でも、まさか、そんな話が今ここで出るとは思わなかった。
「それで……」
彼女は、少しだけ目を伏せる。
「これ、私が書いたんだ」
自分の名前が書かれた消しゴムを、そっと差し出した。
「……」
何かを言わなきゃいけない。
そう思うのに、言葉が出てこなかった。
「だから、昨日はびっくりして、つい誤魔化しちゃったけど……でも、もういいかなって思って」
「……」
彼女が、ふっと笑う。
「だって、もうバレちゃったし」
そう言って、消しゴムを指先でくるりと回した。
「……ごめんね、変なことして」
「……」
言葉を探す。
でも、何を言えばいいのか、わからなかった。
ただ、彼女の手の中にある消しゴムを見つめることしかできなかった。
「もし、迷惑じゃなかったら……」
一瞬、躊躇うようにして。
でも、彼女はそれでも、勇気を出したように言った。
「このまま、持っていてもいい?」
「……」
答えは、決まっていた。
「……あぁ」
自然と口からこぼれた言葉に、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「よかった」
そう言って、彼女は消しゴムをそっとポケットにしまう。
そして、いつも通りの笑顔で「じゃあ、また明日」と言って、軽く手を振った。
「……あぁ」
彼女の背中を見送る。
そのポケットの中に、まだ名前が書かれたままの消しゴムがあることを思いながら。
「……」
なんとなく、自分の手がポケットの中の鍵を探した。
きゅっと握りしめる。
それは、いつもと変わらない手の感触だったはずなのに、なぜか今日だけは少し違って感じた。
それが何なのかは、まだわからない。
ただ、彼女がポケットにしまった小さな消しゴムのように——
その気持ちも、そっと胸の奥にしまっておこうと思った。
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