
数日ぶりに、空が穏やかな表情を見せた。
ここ最近は、ずっと風が強かった。潮の香りよりも、砂混じりの冷たい風が肌を刺し、海も白波を立てて荒れていた。そんな日が続くと、自然と足が遠のく。ロッドを持ち出す気にもなれず、ただ天気予報と海の様子を睨みながら過ぎていく日々だった。
それが今朝、ようやく風が落ち着きを見せた。
家を出たのは、まだ朝の空気がひんやりと澄んでいる時間帯だった。車の窓を少し開けると、潮の匂いが微かに鼻をかすめる。天気は晴れ、風は弱い。砂浜に立てる──それだけで、心が少し弾む。
「様子だけ見に行くか」
そう言いながらも、釣り道具はすでに車に積んである。気がつけば、メタルジグも数本ポケットに忍ばせていた。様子見、という言葉は、いつだって都合のいい言い訳になる。
砂浜に着くと、驚くほどの静けさが広がっていた。
波は穏やかに寄せては返し、風はほとんどない。先週まで荒れていたとは思えないほど、海は凪いでいた。
「……いいじゃないか」
ロッドを取り出し、リールをセットする。メタルジグはお気に入りの28g。遠投性能が高く、底まで素早く沈んでくれる。マゴチを狙うには、これがちょうどいい。
誰もいない砂浜をゆっくり歩き、足元の感触を確かめる。少し湿った砂の上に足跡が刻まれていく感触が、妙に心地いい。
キャストの構えに入ると、背中に微かに潮風が吹き抜けた。
「よし……」
スッと振りかぶり、思い切りロッドを振る。シュッという音とともに、ジグが弧を描いて遥か沖へと飛んでいく。
──パシャ。
水面に落ちた瞬間、静かな海にわずかな波紋が広がる。ラインを張りながら、ジグが底に着くのを待つ。カウントを取りながら、底に触れた感覚を確認。
シャッ、シャッ。
ロッドを軽く煽り、ジグを跳ね上げる。底を叩くようなイメージで、テンポよく探っていく。砂煙を上げながら逃げるベイトを演出するように──。
ただ、反応はない。
2投目、3投目……変化はない。それでも、今日は投げられること自体がありがたかった。数日間、風に阻まれていた分、ロッドを振るという行為そのものが気持ちいい。
10投目を超えた頃だろうか。
ジグをリフトしてフォールさせた直後──ラインに違和感。
「……ん?」
テンションをかけた瞬間、ググッとわずかに重みが走った。
一瞬、心臓が跳ねた。
アワセを入れるべきか迷ったが、次の瞬間にはもう軽くなっていた。
「……のらなかったか」
小さなため息が漏れる。でも確かに、魚の気配があった。底を這うように泳ぐマゴチか、もしくは…何か別のフラットフィッシュか。
その一瞬のアタリを逃したことが悔しくて、もう一度、もう一度とキャストを繰り返す。しかし、二度目のチャンスは訪れなかった。
やがて陽が少しずつ昇り、海面がキラキラと輝き出す。足元の影が長く伸びて、朝が深まり始めているのがわかる。
「……帰るか」
ロッドを下ろし、ジグを外してラインを巻き取る。静かな浜辺に、リールの回転音がかすかに響いた。
釣果はゼロ。それでも、不思議と後悔はなかった。あの一瞬の手応えだけで、充分に心が満たされていた。
足跡を辿って砂浜を戻りながら、心の中でそっと呟く。
「次は、あの一瞬を逃さないように」
車に乗り込み、エンジンをかけると、ラジオから流れる朝のニュースが静けさを破った。
「……今朝の気温は、平年よりやや低め……」
窓を少しだけ開けると、潮風がふわりと入り込む。釣果はゼロ。でも、悔しさよりも、不思議と満たされた気持ちが残っていた。
一度だけ感じた“ググッ”というあの感触。釣り人にとって、あの一瞬の手応えは、言葉にしがたいほどの価値を持っている。
帰り道、信号待ちの車内でハンドルに手を添えたまま、指先に残る感覚を思い出す。あれはマゴチだったのか、それともヒラメか。想像を巡らせる時間さえも、釣りの楽しさの一部だ。
家に着き、タックルを片付ける。ロッドのガイドにたまった塩を水で流し、ジグのフックに錆がないかを確認する。釣れなかった日こそ、次に向けた準備を丁寧に。
「釣れなかったからって、手ぶらで終わらせるのもな……」
冷蔵庫を開け、冷凍室を覗き込む。
冷凍庫には、まだたっぷりのアカイカとスルメイカが眠っている。数週間前、釣り仲間の船で釣り上げたものを、冷凍しておいたやつだ。釣り上げたあの時のまま、今も美しい姿見を保っている。
「今日は、こいつで一杯にしようか」
キッチンに立ち、冷水でアカイカをゆっくりと解凍していく。包丁の背で表面を優しく撫で、薄い皮を剥がしていく。
ヌルッとした感触が指先に残り、イカ独特の香りがふわりと立ちのぼる。解凍具合を確認しながら、身を適度な大きさに切り分けていく。
身はうっすらと透け、中心にかけて白みを帯びていた。
「細切りにするか」
包丁を縦に入れ、薄く、均等にカットしていく。切った身を冷水でサッと締め、キッチンペーパーで軽く水気を取る。
次に、山葵をおろす。チューブではなく、生の山葵を選ぶのは、今日は釣れなかった自分への小さなご褒美のようなものだ。
小皿に並んだアカイカの刺身。その横に、ほんの少しだけ山葵を添える。シンプルな白い器に盛り付けると、静かな海を思わせるような涼しげな一皿ができあがった。
「いただきます」
箸で一枚すくい、醤油に軽くつけて口へ運ぶ。
ぬるりとした食感のあと、ゆっくりと噛むごとに、甘さがじわじわと広がっていく。
「うまい……」
獲れたてではない。けれど、釣ってそのままイカ袋に入れて冷凍しておいたアカイカの身は、なおも鮮度を保ち、釣った日の記憶を呼び起こしてくれる。
静かなキッチン。窓からは、午後のやわらかい光が差し込んでいる。
ひとり、静かに箸を進めながら、あの砂浜の景色を思い出す。
風の音、波の音、そして一度だけ感じた手応え。
「釣りって、やっぱりいいな」
釣れなかった日も、それはそれで意味がある。
次はきっと。
その想いを噛みしめながら、最後のひと切れを口に運んだ。
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