
小さな落とし物
放課後の教室は、昼間の賑やかさを忘れたように静かだった。
机と椅子が無造作に並び、窓の外から吹き込む風がカーテンをゆるく揺らしている。
掃除当番を終えて荷物をまとめたあと、ふと廊下に目をやる。
——彼女がいる。
数人の友達と話している姿が、半開きのドアの隙間から見えた。
彼女は、クラスでも目立つ存在だった。
勉強ができるとか、運動が得意とか、そういうわけじゃない。
けれど、いつも誰かの中心にいて、自然と視線を集めるような子だった。
特別、意識していたわけじゃない。
話すこともほとんどないし、隣の席になったこともない。
なのに、気づけば目で追っている自分がいる。
彼女が笑うと、まるで周りの空気が少しだけ柔らかくなるようだった。
教室を出て廊下を歩く。
彼女のすぐ横を通り過ぎる瞬間、ふと足元に何かが落ちているのが見えた。
小さな、黒いヘアゴム。
彼女のものかどうかは分からなかった。
けれど、さっきまで髪を結んでいたのに、今はほどけているのが目に入る。
「あ!」
気づいたのか、彼女が髪をかき上げる仕草をした。
その指先が、いつもより少し寂しげに見えた。
拾って、声をかけようか——。
一瞬、迷う。
目の前には、彼女の友達がいる。
自分が話しかけたら、変に思われるかもしれない。
結局、その場では何もできず、ヘアゴムだけをそっとポケットにしまった。
帰り道の途中、ポケットの中のヘアゴムを指先で転がす。
どうして拾ったんだろう。
渡せばよかったのに、気づかないふりをしてしまった。
もし、明日も彼女が髪を結んでいなかったら、やっぱり必要だったのかもしれない。
でも、落としたことすら気づいていないかもしれない。
どうすればいいんだろう。
ただのヘアゴム。
それなのに、ポケットにあるだけで、妙に気にかかる。
次の日。
彼女は、昨日と変わらず髪を結んでいた。
昨日と同じように、無造作にまとめられたポニーテール。
新しいヘアゴムを使ったのか、それとも誰かから借りたのか。
もし、このまま渡さなかったら、別に困ることはないんだろうな。
そう思うと、余計に渡しそびれてしまう。
授業の合間、ちらりと彼女の方を見た。
窓際の席で、友達と小さな声で話している。
時折、窓の外に目を向けては、頬杖をつく。
あのヘアゴムは、本当に彼女のものだったんだろうか。
確信が持てないまま、またポケットの中で指先がそれをなぞる。
放課後、彼女が教室を出るタイミングを見計らう。
何かのついでのように、さりげなく渡せればいい。
けれど、そんな都合のいいタイミングはなかなか訪れなかった。
自分が帰るころには、彼女の姿はもうどこにもなかった。
帰宅して、机の上にヘアゴムを置く。
まるで自分のものみたいに、そこにあるのが変な気分だった。
渡せないまま、二日が過ぎた。
たったそれだけのことなのに、気持ちがもやもやと落ち着かない。
手元にある限り、ずっと気にしてしまいそうだった。
——明日こそは、渡そう。
そんなことを考えながら、眠りについた。
次の日。
ヘアゴムをポケットに入れて、何度も指先で確かめる。
今日こそは渡そう。そう決めたはずなのに、思っていたより簡単じゃない。
授業中、机の上に頬杖をつきながら彼女の方をちらりと見る。
何かを考えているように、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
窓からの光が髪に映えて、ゆるく結ばれたポニーテールがそよぐ。
新しいヘアゴムを使っているのか、昨日と変わらない後ろ姿。
(……もう、渡さなくてもいいのかも)
そんな考えがよぎる。
彼女が困っている様子はない。
落としたことすら気にしていないのかもしれない。
だったら、わざわざ渡す必要なんて——。
放課後、なんとなく教室に残る。
彼女は友達と談笑しながら、ゆっくりと荷物をまとめていた。
特に急ぐわけでもなく、帰るタイミングを見計らっているようにも見えた。
本当なら、その間に声をかければよかったのかもしれない。
けれど、彼女の友達がすぐ隣にいるだけで、気軽に話しかけることはできなかった。
「じゃあ、また明日ね!」
彼女は友達に手を振り、教室を出て行った。
その後ろ姿を目で追う。
気づけば、また渡しそびれていた。
帰り道。
もう空は薄暗くなり始めていた。
秋の夕暮れは短く、気温も少し肌寒くなっている。
結局、今日も渡せなかったな——。
そう思いながら歩いていると、前方に見慣れた後ろ姿があった。
彼女だった。
一人で歩いている。
いつも友達と一緒なのに、珍しい。
渡すなら、今かもしれない。
歩幅を少し早める。
「……」
声をかけるタイミングを探すが、うまく言葉が出てこない。
ポケットの中で、ヘアゴムをそっと撫でる。
たったこれだけのことで、どうしてこんなに迷うんだろう。
ふと、彼女が立ち止まった。
何かを探すように、足元を見つめる。
もしかして——。
小さく息を吸って、思い切って声をかけた。
「……これ、落とした?」
そう言って、ポケットからヘアゴムを取り出す。
彼女がこちらを向いた。
一瞬、驚いたような表情をした後、ヘアゴムを見て目を瞬かせる。
「あ……」
手を伸ばして、そっとそれを受け取った。
「ありがと。……どこで拾ったの?」
「教室の前で。多分、落としたんじゃないかと思って……」
「そっか……気づかなかった」
彼女はヘアゴムを指で弄びながら、小さく笑った。
「でも、なんで持ってたの?」
鋭い質問だった。
「いや……その、すぐ渡せばよかったんだけど……」
言葉を濁すと、彼女はくすっと笑う。
「もしかして、ずっと持ってた?」
からかうような口調。
「……まぁ、そんな感じ」
正直に答えると、彼女は少しだけ驚いた顔をした。
「そっか」
それだけ言って、視線を落とす。
その後、しばらく沈黙が続いた。
何か話さなきゃと思いながらも、何を言えばいいのかわからない。
そうしているうちに、彼女がゆっくりと歩き出した。
「……じゃあね」
そう言って、小さく手を振る。
いつもより少しだけ、ゆっくりと。
「……ああ」
そう返して、彼女の背中を見送った。
ポケットの中には、もうヘアゴムはない。
ただ、それだけのことなのに。
どこか、胸の奥がふわりと揺れる気がした。
それが何なのかは、まだよくわからない。
次の日。
授業中、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
昨日のことが頭から離れない。
手を振っていた彼女の後ろ姿、ほんの少し驚いたような表情。
「もしかして、ずっと持ってた?」
その言葉を思い出すたび、胸の奥が妙にざわつく。
渡すだけのつもりだったのに。
どうして、こんなに気になるんだろう。
昼休み。
いつものように、友達と他愛のない会話をしていた。
ふと、教室の入り口の方で、彼女の姿が見えた。
「おーい!」
隣の席の子が、彼女に手を振る。
彼女は小さく微笑んで、軽く手を振り返した。
その横顔を、つい目で追ってしまう。
そんな自分に気づき、少しだけ息をつく。
(……なんなんだ、これ)
ただのヘアゴムひとつ。
それを渡しただけなのに、こんなにも意識してしまうのが不思議だった。
放課後。
帰り支度をしながら、何気なく教室の外を覗いた。
彼女がいた。
廊下で友達と談笑しながら、髪を結び直している。
手に持っているのは——昨日、渡したヘアゴムだった。
思わず、心臓が跳ねる。
(使ってる……?)
自分でも驚くほど、小さなことで嬉しくなった。
でも、すぐに気づく。
彼女が結んだ髪を、友達が軽く引っ張っていた。
「それ、昨日のやつ?」
「うん、落としたやつ。拾ってくれたみたいで」
「へぇ〜、よかったね」
「うん」
彼女は少しだけ笑った。
どこか、昨日より柔らかい表情に見えた。
帰り道。
昨日と同じ時間、同じ道。
だけど、今日は彼女の姿はなかった。
代わりに、昨日のことを思い出していた。
「……ありがと」
それだけの言葉だったのに。
こんなにも記憶に残るなんて。
自分でも、思っていたより単純なのかもしれない。
だけど——。
それでいい、そう思った。
次の日も、また次の日も。
彼女の髪には、昨日渡したヘアゴムがあった。
それを目にするたび、小さく心が動く。
特別な言葉を交わしたわけでもない。
それなのに、不思議と忘れられない。
彼女の後ろ姿を、目で追いながら思う。
(……たぶん、これがはじまりなんだろうな)
名前を呼んだこともない。
二人で話したことなんて、ほとんどない。
それでも、彼女を目で追う時間が、少しずつ増えていく。
そんな自分に気づいてしまった。
だけど、それを認めるのは、もう少し先でいい気がした。
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