『Still with You』

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部屋の片隅に、あなたのマグカップが置きっぱなしになっている。
もう何か月も、そのままだ。

手に取ることができず、ただ視界の隅に収めるだけの日々。
コーヒーの染みが残ったままの縁に指を伸ばそうとして、いつも手が止まる。
あなたが最後に口をつけた跡が、まだそこにある気がして。

あなたがいなくなって、どれくらい経ったのだろう。
時計は静かに時を刻み、カレンダーは何枚もめくられた。
でも、私の中の時間だけが、あの日のままで止まっている。

目を閉じれば、すぐに思い出せる。
あなたがここにいた日々を。

「おはよう」
寝ぼけた声でそう言って、私の髪をくしゃっと撫でるあなた。
コーヒーメーカーの音が響く朝のキッチン。
読みかけの本を片手に、ソファに寝そべる姿。
何気ない仕草のひとつひとつが、まるで今もすぐそばにあるように思えてしまう。

でも、目を開けると、そこにはもう誰もいない。
あなたの存在は、夢の中にしか残されていない。

外の世界は、何事もなかったかのように変わり続けている。
季節は巡り、人々は忙しそうに歩き、街は色を変えていく。
けれど、私の心だけは、あの頃のまま取り残されていた。

スーパーに行くと、あなたが好きだったコーヒーを無意識に手に取ってしまう。
テレビをつければ、ふとした瞬間にあなたの笑顔が浮かぶ。
すれ違う誰かの香水の香りが、あなたのものと似ていると、それだけで足が止まる。

「……まだ、ここにいるの?」

私は小さくつぶやく。
静まり返った部屋に、私の声だけがぽつんと落ちた。

あなたが座っていたソファに、そっと腰を下ろす。
その場所だけ、時間が止まったように冷たかった。

――夜がくる。

暗闇に包まれると、私はあなたに会える。
夢の中では、あなたは変わらずそこにいる。

「おかえり」
「今日は何してた?」

そんな他愛もない会話を交わして、笑い合う。
あなたは何も変わらないまま、私の手を握る。
そのぬくもりが、心の隙間を埋めていく。

――このままずっと、夢の中にいられたらいいのに。

けれど、朝がくる。
目が覚めれば、あなたはいない。
何も変わらない部屋と、何も変わらない孤独だけが、そこに残る。

それでも、私は夢を見ることをやめられない。
あなたがいなくなってしまった現実よりも、夢の中のほうが、よっぽど心地よかったから。

でも、ふと思う。

――あなたは、本当に「ここにいる」の?
それとも、私はただ「ここにいてほしい」と願い続けているだけ?

答えは出ない。
だけど、胸の奥に小さな違和感が生まれた。

私は、あなたの影を追い続けているだけなのかもしれない。

そして、そのことに気づいてしまった私は――。

このままでいいの?

そんな疑問が、ふと頭をよぎる。
あなたがいなくなって、どれくらい経っただろう。
季節が変わっても、私はまだここにいる。

あなたの好きだったコーヒーを買い続け、
ソファの隣には、あなたが座っていた場所を空けたまま。
クローゼットを開ければ、あなたの服がそのまま並んでいる。
靴箱の奥には、あなたのスニーカーが眠っている。

「……そろそろ、片付けようか」

誰に言うでもなく、ぽつりと呟く。
けれど、言葉だけが宙を舞い、行動には移せなかった。
まだ、踏み出せない。

あなたの残したものを整理することは、
あなたを忘れることと同じような気がして。

夜になると、私はまた夢の中であなたに会いに行く。

そこでは、時間は止まったまま。
あなたは変わらない笑顔で、私を見つめる。
まるで「ここにいればいいんだよ」とでも言うように。

――それでも。

このままでいいのか、という気持ちは消えなかった。

ある日、私はクローゼットを開けた。
あなたのシャツの袖をつまむ。
すると、ポケットの中に何かがあることに気がついた。

――小さな、折りたたまれた紙。

指先でそっと開く。
そこには、あなたの字でこう書かれていた。

「いつか、前に進めるように」

息を呑んだ。

どうして、今これを見つけてしまったのだろう。
もしかしたら、ずっとそこにあったのに、私が見ようとしなかっただけなのかもしれない。

あなたは、私がこうなることを知っていたの?
それとも、これはあなた自身の言葉だったの?

分からない。
だけど、涙が止まらなかった。

私はまだ、あなたを手放せない。
だけど、この言葉が私に何かを訴えかけているのは確かだった。

その夜、夢を見た。

あなたはそこにいた。
相変わらず、穏やかな笑顔で。

私は、あなたの顔をじっと見つめた。
夢の中では、あなたは変わらない。

でも、今日は違った。

「ねえ」

私は意を決して、口を開いた。

「あなたは……本当に、ここにいるの?」

あなたの笑顔が、ふっと消えた気がした。

「私は、ずっとあなたを待ってる。
ここで、あなたの手を握り続けてる。
でも……あなたは?」

あなたは、少しだけ悲しそうな目をした。

まるで、「分かってるんだろう?」と言うように。

心がざわめく。
私が、あなたをここに繋ぎ止めている?
それとも、私はただ、夢の中であなたを創り出している?

目を覚ますのが怖かった。
このまま夢の中にいられるなら、それでいいと思っていた。

だけど――。

あなたは、そっと私の手を離した。

「もう、大丈夫だよ」

その言葉を最後に、あなたの姿がぼやけていく。
必死に手を伸ばそうとしたけれど、指先が届く前に、あなたは消えてしまった。

私は、はっとして目を覚ました。

カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。

いつもと変わらない部屋。
けれど、何かが違っている気がした。

私はベッドから降り、クローゼットの前に立つ。

そして、あなたのシャツを取り出し、しばらく見つめた。

――あなたがここにいた証は、たくさん残っている。

でも、それは、あなたそのものではない。

私は、あなたの服を静かに畳み直した。

少しずつでもいい。
あなたの残したものを整理しよう。

あなたを忘れるわけじゃない。
だけど、私は――。

(次回、完結編)

「Still」(最終回)

 窓を開けると、春の風が吹き込んできた。
 淡い陽の光が部屋を照らし、揺れるカーテンの隙間から、青い空が見えた。

 私は、あなたのシャツを丁寧に畳みながら、ふと気づく。
 この部屋の景色は、ずっと変わらないままだった。
 いや、変わらないようにしていたのは、私自身だったのかもしれない。

 クローゼットの中には、まだあなたの服が掛かったまま。
 靴箱の奥には、あなたのスニーカーがそのまま残っている。
 まるで、いつかあなたが戻ってくる日を待っているかのように。

 私は、そのスニーカーを手に取り、ゆっくりと指でなぞった。

 「……そろそろ、片付けようか」

 自分に言い聞かせるように呟く。
 これまで、何度も思ったことだった。
 けれど、どうしても踏み出せなかった。

 それでも、今なら――。

 少しずつでも、あなたがいた時間を「思い出」として整理できる気がした。

 あなたが最後に座っていたソファ。
 そこに腰掛けると、あなたの笑顔が浮かぶ気がした。

 「ねえ、あなたなら、こういうときどうした?」

 呟くと、すぐに答えが返ってきそうな気がした。
 でも、返事はない。

 私は、ポケットからあの紙切れを取り出し、そっと指先で撫でる。

 「いつか、前に進めるように」

 これは、あなたが私に残してくれた言葉。
 たとえ、私の中にあなたがい続けても、それは「囚われること」とは違う。
 あなたがいなくなったことを認めた上で、それでも大切な存在であり続けること。

 それが「前に進む」ということなのかもしれない。

 私は、小さく息を吸い込んで、窓の外を見た。

 空は、果てしなく広がっている。
 まるで、私を包み込むように。

 「……ありがとう」

 どこへともなく呟いた言葉が、静かに部屋に溶けていく。

 それからの私は、少しずつ変わっていった。

 あなたの服を整理し、靴を箱にしまい、あなたの好きだったマグカップを棚の奥に片付けた。

 決して捨てたりはしない。

 けれど、それはもう「待つため」ではなく、「大切にするため」だった。

「私は、あなたの記憶とともに、新しい時間を生きていく。」

 決してあなたを忘れるわけじゃない。

 だけど、あなたに囚われるのは、もうやめよう。

 夜、夢を見た。

 でも、そこにはもう、あなたの姿はなかった。

 寂しくないと言えば嘘になる。
 けれど、どこかほっとした自分もいた。

 あなたはもう、自由になったのかもしれない。
 そして、私も。

 カーテンが揺れる。
 遠くで鳥の声が聞こえる。

 朝の光が差し込む部屋の中で、私はゆっくりと目を開けた。

 新しい一日が、始まる。


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