
2月14日。
いつもと同じはずの学校が、どこか浮ついた空気をまとっている。
朝から廊下を歩けば、「○○先輩に渡すんだ!」「手作りってすごいね!」なんて声が飛び交い、昼休みになれば「チョコ、もらった?」「○個ゲット!」といった会話が聞こえてくる。
そんな賑やかな空気の中で、橘陽菜はずっとタイミングを探していた。
手提げの中に、小さな包み。
悠斗に渡すはずだった。
(……でも、渡せるかな)
陽菜は人目を忍ぶようにして、悠斗の姿を探した。
そして、見つけてしまった。
「悠斗、今日は帰る?」
「んー、どうしようかな」
菜月と悠斗が二人で話している。
(……あ)
陽菜は、心臓がぎゅっと縮こまるような感覚を覚えた。
そんなの、見慣れた光景のはずなのに。
悠斗と菜月が一緒にいるのは、今に始まったことじゃない。
それでも、こういう日だからこそ、胸の奥に何かが引っかかる。
――渡せない。
渡したところで、悠斗は受け取ってくれるかもしれない。
でも、きっと彼の隣にいるのは、自分じゃない。
それを思い知らされるのが、怖かった。
陽菜はそっと足を引いた。
そもそも、これは渡すべきじゃなかったのかもしれない。
最初から、悠斗に気持ちを伝えるつもりなんてなかったんだから。
――そうだよ、今年も。
私は、この気持ちをなかったことにするんだ。
そう決めて、背を向けたときだった。
「助けてくれー!」
聞き慣れた声に、足が止まる。
「ん?」
振り返ると、そこには圭吾が床にはいつくばっていた。
「糖分が切れて動けない……誰か、この中にチョコを持ってる方はいませんか!」
そう言いながら、パタリと倒れてみせる。
「なにそれ」
陽菜が呆れながらも笑うと、圭吾はニッと笑ってみせた。
「いや、マジでやばいんだって。俺、今日チョコ一個ももらえてないんだけど?」
「え、本当に?」
「なんでそんな驚くんだよ!」
ふざけたやりとりをしながらも、陽菜の手は無意識にカバンへと伸びていた。
(……どうせ、渡せないし)
そう思いながら、陽菜は圭吾に向かって小さな包みを差し出した。
「ほら、これあげるから起きて」
「……え?」
圭吾の顔が、少しだけ驚いたように固まる。
「まじで?」
「うん!」
圭吾は、一瞬何かを考えるように陽菜を見つめたあと、いつもの軽い調子で言った。
「やったー! 陽菜、ありがとうな!」
ぱっと明るい笑顔を向けられると、陽菜もつられるように微笑んだ。
――これでいい。
自分の気持ちなんて、どうせ叶わないんだから。
そうして、圭吾が包みを開けたそのとき。
「お、もうこんな時間か。じゃあ俺、帰るわ!」
陽菜の返事を待たずに、圭吾は軽い足取りで昇降口を抜けていった。
まるで、何事もなかったかのように。
圭吾の後ろ姿を見送りながら、陽菜はふっと息をついた。
軽い冗談みたいな流れだったけど、それでいい。
少なくとも、余計なことを考えなくて済んだ。
(これで、終わり)
そう思いながらも、心の奥でほんの少しだけ引っかかるものがあった。
夕方。
悠斗と菜月が並んで昇降口を出た、その瞬間。
「おーい、悠斗!」
駆け寄ってきたのは、さっき帰ったはずの圭吾だった。
「なんだよ、まだいたのか」
「いやいや、それよりさ、これ食ってみ!」
そう言いながら、圭吾は手に持っていたチョコの包みをひとつ差し出した。
「……は?」
「これ、めちゃくちゃうまいから!」
「いや、なんでお前が俺に渡すんだよ」
「いいから、騙されたと思って食えって!」
悠斗は仕方なさそうに包みを開け、チョコをひとつ口に入れた。
「……うまっ!」
「だろ?」
得意げに胸を張る圭吾に、菜月が目を瞬かせる。
「圭吾、チョコもらえたの!?」
「まぁな!」
「すごいじゃん、よかったね!」
「だろ?」
圭吾は笑顔で答えながら、ふっと軽く手を振った。
「じゃあ、俺は先に行くわ。まだ俺に渡したい人がいるかもしれないしな!」
そう言い残して、圭吾はすぐに去っていく。
悠斗と菜月は顔を見合わせながら、圭吾の後ろ姿を見送った。
「なんか、今日の圭吾、変じゃない?」
「んー? まぁ、いつものことだろ」
悠斗は気にすることもなく、再び歩き出した。
翌朝の教室。
陽菜はいつも通りに席についた。
何事もなかったように、机にノートを広げ、ぼんやりとページをめくる。
――すると、廊下の向こうから聞こえてくる声があった。
「圭吾、昨日チョコもらってたんだよ!」
その言葉に、陽菜の指がピクリと止まる。
悠斗と大和が、教室の入り口で話している。
何気ない雑談のように聞こえたけど、陽菜にとっては耳が離せない内容だった。
「え、マジか?」
大和の驚いた声。
「うん、俺もびっくりしたけどな。しかも手作りでさ、一個もらったんだけど、美味しかった」
(……!)
陽菜の胸が、一気に跳ねる。
(悠斗が……なんで?)
昨日のチョコを食べたのは、圭吾だけじゃなかった。
(……私のチョコ)
悠斗が食べた。
美味しいって言ってくれた。
嬉しいはずなのに、心が全然浮き立たない。
むしろ、ぎゅっと胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われた。
陽菜はそっと自分の手を握る。
本当に、悠斗に渡したかったはずなのに。
彼が食べてくれたなら、それでよかったはずなのに――
(なんで、こんな気持ちになるの?)
そのとき、大和がぽつりと呟いた。
「でもさ、圭吾、自分で買ったんじゃなくて?」
「いや、それがちゃんと手作りでさ」
「誰から?」
「それは秘密って言ってた」
陽菜の呼吸が、一瞬止まった。
(……圭吾)
圭吾は、チョコをもらったことを隠している?
あんなに軽いノリで受け取って、いつもならすぐに自慢しそうなのに?
「つーか、悠斗、お前が食べたんなら分かるだろ? 圭吾のチョコ、誰のだったか」
「いや、俺も知らないし。でも、マジで美味かったぞ」
(……)
悠斗の声が響く。
(美味しいって、言ってくれたのに)
それよりも、圭吾が誰にも言わず、黙っていることのほうが気になった。
昼休み。
気づけば、無意識のうちに、圭吾のいる方へと目を向けていた。
彼は、いつものように明るく笑いながら、悠斗や大和と話している。
(本当に、いつもと同じ)
だけど、昨日のあのとき、
渡した瞬間、彼はほんの一瞬、驚いた顔をした。
それが、ずっと頭にこびりついている。
(なんで、圭吾は言わないの?)
自慢げに言いふらすタイプなのに。
誰からもらったのか、興味津々で聞かれるのが分かっているのに。
(……なんで?)
胸の奥に、妙なざわめきが広がる。
「陽菜?」
「……!」
声をかけられて、はっと顔を上げる。
「……な、なに?」
目の前にいたのは圭吾だった。
「どうした?」
「……別に」
陽菜は、とっさに視線を逸らした。
でも、圭吾はそれ以上は何も聞かず、「そうか」とだけ言って笑った。
(なんで、そんな普通でいられるの)
何もなかったみたいに。
昨日のことなんて、何もなかったみたいに。
(……どうして?)
陽菜は、ぎゅっと手を握りしめる。
(でも、私もずっと誤魔化してたんだから)
気づかないふりをしてたんだから。
圭吾の優しさに、ずっと。
放課後。
陽菜は、まだ帰る気になれずにいた。
廊下を歩きながら、圭吾の背中を探す。
なんでこんなことをしているのか、自分でも分からない。
(……聞きたい)
何を?
(圭吾は、なんで昨日のことを誰にも言わなかったんだろう)
それを知ったところで、何が変わるわけでもない。
だけど、気になって仕方がない。
すると、ちょうど視界の先に圭吾の姿が見えた。
悠斗と軽く話したあと、圭吾はひとりで昇降口へ向かっていく。
陽菜は、迷う間もなく、駆け足でその後を追った。
「圭吾!」
昇降口の前で、思わず名前を呼んだ。
「おっ、陽菜」
振り返った圭吾は、特に驚くでもなく、いつもの軽い笑顔を向けてくる。
「どうした?」
「……ちょっと、話があって」
「おぉ、俺に? なんだなんだ、ついに告白か?」
「はぁ!? ち、違うし!」
反射的に否定したけれど、思わず心臓が跳ねた。
冗談だって分かってるのに。
(……私、何考えてるの?)
気持ちを落ち着かせるように深呼吸して、もう一度圭吾を見上げた。
「……昨日のことなんだけど」
その言葉に、圭吾がふっと表情を緩める。
「ん? なんかあったっけ?」
「……」
なんでもないことみたいに、そう言う。
(ほんと、こういうとこ……)
「圭吾さ、昨日チョコもらったこと、誰にも言ってないよね?」
真正面から聞くと、圭吾は少しだけ目を瞬かせた。
「……なんで?」
「それは……」
自分でも分からない。
ただ、気になって仕方がなかっただけ。
そう言おうとしたけれど、圭吾は笑って、いつもの調子で続けた。
「別に、言う必要ないかなって思っただけ」
「……どうして?」
「ほら、俺ってモテるキャラじゃん? もらったチョコの数とか、適当なこと言っといたほうが、なんかカッコつくだろ?」
「……」
(嘘だ)
分かる。
だって、昨日の圭吾は、ほんの少しだけ――いや、確かに驚いていた。
あの一瞬の間。
(本当は、知ってたんでしょ?)
本当は悠斗に渡したかったこと。
だから、圭吾はあえて、冗談みたいに受け取って、悠斗に渡してくれた。
そうやって、全部、私の気持ちを隠してくれた。
でも――
「……もしかして」
「ん?」
「圭吾ってさ、ずっとこういうことしてきた?」
「こういうこと?」
「……私が、気持ちを消そうとするたびに」
圭吾の目が、わずかに揺れる。
それを見て、陽菜は確信した。
(やっぱり、そうなんだ)
過去の記憶が、蘇る。
悠斗と菜月が仲良くしているのを見たとき。
自分の気持ちを、なかったことにしようとしたとき。
――そのたびに、圭吾は。
何気ない冗談みたいに、私を引き戻してくれた。
「……なんで?」
小さな声で問いかける。
「なんで、そんなことしてくれるの?」
圭吾は、しばらく黙っていた。
その沈黙が、陽菜の胸を締め付ける。
――本当は、知りたくなかったのかもしれない。
でも、もう、気づいてしまった。
圭吾が、ずっと自分を見てくれていたこと。
ずっと、気にかけてくれていたこと。
それなのに、私は――
「……」
言葉が出てこない。
「お前さ、ほんと鈍いよな」
圭吾が、ふっと笑う。
「……なにそれ」
「いや、なんでもない」
(……)
ずっと近くにいたのに。
いつもふざけてて、適当で、誰にでも優しくて。
でも、本当は――
(……気づいてなかったの、私だけだったんだ)
陽菜は、ぎゅっと拳を握る。
「……圭吾、ありがとね」
「ん?」
「今までずっと、気にしてくれてたんでしょ?」
「……さぁ、どうだろ」
圭吾はいつもの調子で、肩をすくめる。
でも、陽菜には分かる。
本当は、誤魔化してるだけだって。
(……私、どうしたらいいのかな)
悠斗が好きだった。
ずっと、好きだった。
でも、今――
(一番心に浮かぶのは、ずっとそばにいてくれた、あの笑顔だった)
「……じゃあ、また明日な」
圭吾が、軽く手を振って歩き出す。
その後ろ姿を見ながら、陽菜はふっと息をついた。
(私、どうしたらいいんだろう)
次の日の昼休み。
陽菜は、いつものように菜月と一緒に教室で昼食をとっていた。
昨日のことを考えると、どこかそわそわしてしまう自分がいる。
「そういえばさ、陽菜ってチョコ、誰かに渡したの?」
菜月が何気なく尋ねた。
口元におにぎりを運びながら、さらっとした言い方だったけれど、陽菜は思わずドキッとしてしまう。
「えっ? うーん……まぁ、一応……」
「おぉ、そうなんだ!」
菜月が少し驚いたように目を丸くする。
「陽菜のことだから、クラスの女子たちと交換して終わりかと思ってた」
「いやいや、さすがにそれだけじゃないよー?」
笑いながらそう返したものの、陽菜は心の中で少し迷った。
(……言うべき?)
でも、なんとなく言葉にするのが照れくさい。
「じゃあ、誰に渡したの?」
「うーん……」
少し考えて、ふっと笑う。
「……大事な人、かな?」
言った瞬間、自分の頬がじんわりと熱くなるのがわかった。
「えー、なにそれ!」
菜月が茶化すように笑う。
「なんか、すごい意味深なんだけど」
「そ、そんなことないよ!」
慌てて誤魔化すけれど、菜月は「ふーん?」と怪しげに微笑む。
「ま、陽菜がそう言うなら、深くは聞かないけど」
「えっ、菜月は? ちゃんと渡した?」
陽菜が話題を変えるように聞くと、菜月は少しだけ視線をそらした。
「……まぁ、一応」
「そっちも意味深なんですけど!」
お互いの曖昧な言葉に、なんとなく笑い合う。
そのやり取りの中で、陽菜は改めて実感した。
(……うん、やっぱり、これでよかったんだ)
昨日の夜、何度も考えた。
悠斗のこと、圭吾のこと、そして自分の気持ち。
答えはまだはっきりしないけれど、一つだけ分かったことがある。
(私はもう、過去の気持ちには戻らない)
悠斗を好きだった気持ちは嘘じゃない。
でも、もうそれだけじゃない。
今は――
陽菜は深く息を吸い、そっと机の中に小さな包みを滑り込ませた。
昨日とは違う、今の気持ちを込めたチョコレートを。
昼休み。
教室に戻った圭吾が、机の中の小さな包みを見つけたのはそのときだった。
「ん?」
誰かのいたずらかと思いながらも、中身を確認する。
そこには、小さな手書きのメッセージが添えられていた。
『遅くなったけど、これ受け取ってね。――陽菜』
メッセージカードを指でなぞりながら、圭吾は小さく笑った。
昨日と同じチョコのはずなのに、なぜか違う味がする。
甘さが静かに広がり、心の奥にじんわりと染みていく。
(……やっぱ、うまいな)
窓の外をぼんやりと眺めながら、ふっと息を吐く。
もう一度、包みをそっと指でなぞる。
昨日と同じはずのチョコレートは、なぜか今日のほうが、ずっと甘かった。
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